デイリーディボーション 4月29日(土)

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デイリーディボーション 4月29日(土)

2017年4月29日(土)

【通読】
マタイの福音書 2:19-23
19ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。20「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」21そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。22しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。23そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。

【ポイント】
①なぜ「ナザレ?」
23節の「この方はナザレ人と呼ばれる」ということばは、旧約聖書のどこにも見つけることができません。それでは、マタイは「この方はナザレ人と呼ばれる」という表現を、あたかも旧約聖書に記されているかのように偽ったのでしょうか。旧約聖書の専門家が大勢いるユダヤ人に対して、そのような嘘が通じるはずがないからです。それでは、このことばが本当に意味することは何だったのでしょうか。

ヨハネ1章に記されているピリポとナタナエルの会話を見てみましょう。「44ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。45彼はナタナエルを見つけて言った。『私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。』46ナタナエルは彼に言った。『ナザレから何の良いものが出るだろう。』ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』」この会話から分かる通り、当時のユダヤ人たちは、エルサレムから離れた田舎町であるナザレからメシアが出てくるとは考えていなかったことを伺い知ることができます。やはり、「この方はナザレ人と呼ばれる」ということばは、マタイが勝手に作り出したものなのでしょうか。

そうではありません。旧約聖書をしっかりと調べてみると、例えば、イエス様が十字架上で引用した「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」という聖句が含まれている詩篇22篇の6節には「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。」、また、イエス様の歩みがそのまま記録されているかのように見えるイザヤ53章の2-3節には「2彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」と記されています。つまり、メシアは人々から軽蔑され、侮られる存在であると預言されていたということです。どの時代にも、都市部に住む人は、それ以外の地域に住む人を軽蔑し、自分たちの地位が上であること思い込もうとする傾向があるように思います。つまり、マタイがは「メシアはあたかもナザレ人が馬鹿にされているように、人々から蔑まれる存在だと旧約聖書には記されていますね。」というようなことを言いたかったのでしょう。

さらに、研究者の中には、メシアについての預言だと信じられていたイザヤ11章1節の「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」に記されている、「枝」ということヘブル語の発音が「ナザレ」に似ていることとから、マタイは「預言者イザヤが『メシアは枝(ナザレ)』と言っていたのは、地名の『ナザレ』という意味でもあったのです」という、語呂合わせ的な節目をしているのではないかと考えている人もいるようです。

当時、ナタナエルのように「メシアがナザレから出ることは絶対にない!」と、ナザレ出身のイエスについて最初から話しを聞こうとしない人がいたのでしょう。マタイはそのような人たちに対して、「旧約聖書を詳しく調べれば、ナザレ育ちのイエスがメシアであることが決して間違いないことが分かるはずだ。ちゃんと聖書を調べてみて!」と伝えようとしていたのでしょう。

ライフチャーチ
大谷信道


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