デイリーディボーション 1月19日(金)

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デイリーディボーション 1月19日(金)

2018年1月19日(金)

【通読】
ローマ人への手紙 4:9-12
9それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、10どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。11彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、12また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

【ポイント】
①アブラハムの足跡に従う
先日の学びの復習から入りましょう。パウロはアブラハムを前例として「信仰による義」について説明しているわけですが、彼の議論の根拠はどこにあったでしょうか?そうです。「神様の不変性」ですね。神様の計画、御心が創造の瞬間から今日に至るまで、またこの先も永遠に変わることがないというが、聖書の様々な箇所から導き出すことができる一つの結論です。

ですから、アブラハムが、ユダヤ人が極めて重要だと考えている「割礼」「律法」が授けられるまえに信仰によって義とされたという事実も永遠に変わることなく、アブラハム以降の人々にも適用されるべき事実であるということなのです。

②アブラハムに示された神様の計画も変わることがない
さらに言えば、創世記12章3節に記されている「3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」という神様のアブラハムに対する約束も変わることがありません。

③問題は聖書から離れた時に生じる
パウロの時代に存在した「クリスチャンになるためには、律法に従うことを約束し、割礼を受け、ユダヤ人として生きていく必要がある」というような考え方のクリスチャン、または、律法主義的なパリサイ人、律法学者などのユダヤ人たち(ユダヤ教徒)は(旧約)聖書に忠実な人々だったというイメージを持っている人がいるかもしれませんが、実際にはそうではないのです。

彼らはモーセの律法、過去の律法の教師たちの教えには忠実でしたが、パウロが指摘しているアブラハムが信仰によって義とされていたという事実を除外して自分たちの理論、神学を作り上げてしまっているのです。彼らは宗教熱心ではありましたが、聖書的な信仰の持ち主ではなかったと言うことができるのです。

そのようなユダヤ教徒、ユダヤ人クリスチャンにとっては、パウロの「信仰による義」は詭弁としか思われなかったかもしれませんが、実はパウロは聖書から離れることなく、聖書全体に見ることができる「信仰による義」と、イエス様の福音が完全に一致していることを、聖書から解き明かしているのです。パウロのアプローチこそ、聖書的であるのです。現代に生きるクリスチャンも、このパウロの姿勢を受け継ぐことが重要なのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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