デイリーディボーション 10月16日(金)

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デイリーディボーション 10月16日(金)

2020年10月16日(金)
ヤコブの手紙 1:21 21ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
【ポイント】 ①いじわる(悪意)はないか? この質問は、人生のあらゆる場面で自分い問いかけなければならない質問です。そして、この「いじわる(悪意)はないか?」という問いかけに答えるためには、極めて高い倫理観、聖潔の基準が心にある必要があります。ここで重要になるのが「十戒(律法)」、つまり神様が明らかにされた善悪の基準です。「べつにそれぐらいいいんじゃないの?」というような感覚(基準)の中では、自分が相手に対して「いじわる(悪意)」を持っているか否かを見き分けることは不可能なのです。
例えば、裁判においても、被害者は加害者に対して「法によって正しい裁きを受けて欲しい」と思うものです。しかし、それは被害者の心の状態のすべてを表しているわけではありません。被害者の心には、加害者に報復したいという怒り、場合によっては殺意すらあるかもしれません。つまり、「加害者は罰せられるべきだ」という大義名分の中に「悪意」が入り込んでしまっていることを許してしまっており、自分は正しいという意識を持ちながら、無意識の中で心の中の「悪」を増幅させてしまっていることがあるのです。
この大義名分の利用して、相手に報復したくなるという感情は、裁判の場だけでなく、教会や家庭でも起きていることをご存知でしょうか。あらゆる争いの中には、「相手に間違いを気づかせたい」という中立的な気持ちを越え、「間違いを犯した相手を罰したい(苦しめてやりたい)」という欲求(エゴ)が存在するのです。だから、意見の相違が「争い」に発展するわけです。
ですから、裁判においても、日常生活の中の争いにおいても、一番大切な部分は、悪意を持っている加害者の処分だけでなく、自分が被害者だと感じている人も心の中に持っている「怒り」「悪意」「裁き心」なのです。犯人探しや、犯人への報復だけを行っている限り、被害者の心に平安が訪れること、怒りが癒されることは絶対にないのです。
特に、自分も神様の前では罪深いものである、自分も神様の恵みと愛によって赦されているという聖書の真理を共有していない日本人は、他者から何らかの被害を受けたり、他者の間違いを見つけた時に、「自分の心の悪意を捨て去る」とか「相手を赦す」という選択肢を持っていないので、怒りや悪意に飲み込まれてしまう人が多いのではないかと思います。
もう一度、20節の「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」というみことばを胸に刻み付けましょう。そして、自分の心に「いじわる(悪意)」がないのか、神様の前で正直に振り返ってみましょう。もし、心の隅にでも悪意を見つけたとしたら、主の恵みのゆえに、それを捨て去る決意をしましょう。その時に、あなたは心は怒りの奴隷状態から解放され、平安を味わうことができるのです。この取り組みを全員が行えば、教会においても、家庭においても平和が実現するのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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