デイリーディボーション 10月17日(木)

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デイリーディボーション 10月17日(木)

2019年10月17日(木)
ピリピ人への手紙  3:12 12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
【ポイント】 ①信仰の歩みを正確に理解する 私たち信仰の歩みには「既に」と「未だに」の部分があることを理解することが極めて重要です。「既に」という部分は、私たちはイエス・キリストを信じる(愛する)という信仰によって、罪が赦され、永遠の死から救われ、神の子とされ、永遠のいのちが与えられています。これらは絶対に変更されることのない「救いの約束」であり、神様の前で「既に」決められている事柄です。ですから、私たちはこの約束を信じ、この約束に希望を置いて生きているのです。
「未だ」の部分は、救いの約束が与えられた私たちが、依然として罪の性質を持っている肉体を持ちながら、罪に堕落している地上で生活している部分です。つまり、霊的な意味では救いは「既に」完成しているのですが、肉体的、物質的には「未だに」不完全な部分を持ちながら生きているということです。
この「未だに」不完全な部分が、みことばと聖霊の導きによって少しずつ完全なものへと変えられていくプロセスを「聖化」と呼ばれています。今日の箇所では、使徒パウロ自身も、聖化のプロセスの途中であると告白しているのです。しかし、それはパウロが「未だに」救いの約束を手にしていないことを意味しているのでは絶対にありません。そのように理解すると、例えばガラテヤ2章16節の「16しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」というような、パウロの教えと矛盾することになってしまうからです。
イエス・キリストを信じる私たちは「永遠の慰めと祝福」という素晴らしい賞が与えられる約束「既に」いただきながら、ゴールを目指して歩んでいるのです。別の言い方をすれば、祝福の約束が与えられているからこそ、完全を目指して歩んでいけるのです。ですから、ゴールに入れるかどうかを心配することなく、神様の御心を地道に行っていくことができますし、その苦労の中に喜びや達成感を覚えることができるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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