デイリーディボーション 11月26日(月)

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デイリーディボーション 11月26日(月)

2018年11月26日(月)

コリント人への手紙 第2 6:1-2
1私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。2神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

【ポイント】
①神の恵みをむだに受けない
「恵み」とは「律法(の遵守)による義」の反対語です。私たちは、自分の努力や修行によって神様の義、罪の赦し、永遠の死からの救いを獲得したのではありません。私たちの代わりに律法を完全に守り、傷のない小羊としてご自身をささげ、私たちの身代わりとして十字架で罰を受け、死んでくださったイエス・キリストを信じること、その愛が私たちのために与えられていることを信じることによって、神様の義、罪の赦し、永遠の命が「恵み」として与えられているのです。「
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2章)

しかし、「恵み」に預かった私たちには。次のような歩みが準備されていることがエペソ2章の続きを読むと分かります。「10私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」さらに、ローマ人への手紙6章にはこのようにあります。「15それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。16あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」

ですから、「恵みをむだに受ける」ことになってしまう原因は2つ考えられます。1つ目は、「恵みに」よって救われていることが信じられず、律法や戒律を守ることによって天国への階段の上がっていくべきだと考えてしまうことです。パウロの時代から現代に至るまでこの感覚から抜けられない人が少なからず存在するのです。ノルマの達成に充実感を覚える人は「恵み」という考え方に慣れるまで時間がかかることがあり、その途中で「律法主義」に戻ってしまうことがあるのです。

2つ目は、せっかく「恵み」によって罪の赦しを受けているのに、罪から離れようとしないことです。これも、多くのクリスチャンが体験している出来事ですね。しかし、子どもが成長するにつれて少しずつ悪いこと(嘘、いたずら、いじわる)などをしなくなっていくように、クリスチャンも少しずつ罪から離れていくことしかできません。しかし、もし先のローマ人への手紙にあるように「私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう」となってしまっているとすれば、抜本的に生き方を改める必要があるでしょう。

しかし、「恵み」の考え方は極めてシンプルです。私たちは良い行いによって救われたのではなく、恵みとして救われた者として良い行いを選んでいく人生に導き入れられているのです。それは、神様の愛に応えるということでもあります。

自分は恵みをむだに受けていないか、自らを振り返って見ましょう。

ライフチャーチ
大谷信道


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