デイリーディボーション 12月1日(金)

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デイリーディボーション 12月1日(金)

2017年12月1日(金)

【通読】
マタイの福音書 27:21-26
21しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」23だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。24そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」25すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」26そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。

【ポイント】
①裁き合いは何も生まない
揉め事、問題の犯人を探し出し、その「悪者」に制裁を加えても私たちの心が満たされることはありません。タイムリーな話題としては、横綱日馬富士が引退をしましたが、暴行を受けた当事者、関係者をはじめ、単なる野次馬である私たちの誰一人として心がスッキリしているひとはいないでしょう。事件の被害者(直接関係ない者も)は加害者の処罰を強く望みますが、たとえ裁判で被害者側の望みどおりの刑罰が言い渡され、刑が執行されても、完全に心に平安が訪れるとは限らないということを、私たちは経験的に知っています。にもかかわらず、同じような裁き合いを繰り返してしまうのです。

イエス様の裁判、十字架もそうです。人々は世の中を騒がせたイエス様が罰せられることに一種の興奮すら覚えているような印象を受けます。恐ろしいことは、人々がイエス様を犯罪者として血祭りにあげたとしても、自分の心が晴れ晴れすることなどないことに気付いていないことです。これが私たちの罪の性質の恐ろしさなのです。「悪者」を裁き、報復を加えることが「正しいこと」だと思いこんでいるのですが、実際にそれを実行したとしても「後悔」を覚えるだけなのです。

ですから、私たちクリスチャンは、一見それがどのように正しく見えたとしても、「犯人探し」「裁き合い」「復讐、報復」によっては、心に平安を覚えることはないということを胸に深く刻みつける必要があるのです。

反対に、「赦し」を実践するときにこそ、本当の平安、喜びが生まれることを知らなくてはならないのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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