デイリーディボーション 12月14日(火)

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デイリーディボーション 12月14日(火)

2021年12月14日(火)
マタイの福音書 15:10-18 10イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。11口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」12そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」13しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。14彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」15そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」16イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。17口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。18しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
【ポイント】 ①ものの本質を考える 神様はイスラエルの民と、律法を守るものを祝福し、律法を破るものを呪うという約束を交わされました。この約束の本質は、イスラエルの民が神様を愛し、神様のみことばに従順に生きることにあります。つまり、最も重要なポイントは、神様との(愛の)関係性にあるわけです。
「手を洗わないで食事をすることは罪である」これが、15章の最初に見ることができるパリサイ人・律法学者の主張でした。聖書の律法にはそのような規定がないことは先日学んだ通りです。しかし、もしそれが律法に記されていたとしたら、その律法を破る人の問題は、手を洗わなかったという物理的、表面的、公衆衛生学的なところにあるのではなく、神様に不従順であるという点にあるのです。
反対に、律法に明記されていなかったとしても、パリサイ人や律法学者がイエス様を口汚くののしったり、悪意を抱いたりすることこそが、自分を汚し、罪を犯すことになるのだとイエス様は教えられているのです。
ですから、「盲人が盲人の手を引く」とは、自分で罪を犯していることに気が付きもしていない人(パリサイ人・律法学者)が、人の罪を指摘することは極めて愚かなことだという比喩なわけです。
同じような傾向は、現代のクリスチャンの中にも見ることができます。神様の前に正しく生きたいと願うことは素晴らしいことです。しかし、罪深い私たちは、自分が正しく生きたいと願う(がんばる)ときに、正しく生きていないと思われる他人のことが気になってしまうのです。これが、「パリサイ人・律法学者の陥った罠」なのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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