デイリーディボーション 2月1日(木)

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デイリーディボーション 2月1日(木)

2018年2月1日(木)

【通読】
ローマ人への手紙 6:1-3
1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

【ポイント】
①神様の愛と恵みへの応答
昨日学んだ5章20節をもう一度確認してみましょう。パウロは「20律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と教えています。ところが、律法の行いが重要であると信じていた「律法主義的」「ユダヤ主義的」なクリスチャン(未信者)は、このパウロのメッセージを受け入れることができなかったようです。ですから、そのような人々は1節に記されているように、「パウロよお前は間違っている。それでは、恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきであるということになってしまうではないか!」と反論したのです。

このような疑問が生じてしまう理由は何だと思いますか?
私は、律法主義的、ユダヤ主義的な人々が神様との愛の関係について全く理解できず、想像すらできない状況にあったことが理由であると考えます。例えば、「馬鹿な子ほど可愛い」という言葉がありますが、これを聞いて「それでは、子どもは馬鹿であっていいということですか?」「親から可愛がられるためには、馬鹿なことをし続けるべきなのですか?」と聞くものはいません。この言葉の真意は、親は子どもを愛しているので、たとえ子どもが愚かな間違いを犯してしまったとしても、それを受け止め、導き、成長の手助けをすることに喜びを感じるものなのだということ、そのような愛を受けた子どもは親の愛に応えて成長していきたいという思いが与えられるものだということを誰でも知っていることでしょう。しかし、残念ながらパウロに反抗する人々は、神様が愛、恵み、赦しに満ちた天の父であること、天の父と先に述べたような関係を築くことができることを知らなかったのです。

ルカの福音書15章の放蕩息子のたとえを思い出しましょう。罪を犯した弟は父の愛に気付き、父の愛への応答として家に帰り、使用人となってでも父に仕えて行きたいと思ったのです。一方、優等生の弟は父の言いつけを忠実に守っていましたが、父の愛を知らずに、義務感の中に行きていたのです。時間があれば、ルカ15章をじっくりと、味わいながら読んでみましょう。今日の箇所のをさらに深く理解できるはずです。

ライフチャーチ
大谷信道


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