デイリーディボーション 4月23日(木)

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デイリーディボーション 4月23日(木)

2020年4月23日(木)
テモテへの手紙 第一 6:15-16 15その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。
【ポイント】 ①神様の主権に対する私たちの態度を考える 全てのクリスチャンは、神様が「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」ということ、「誉れと、とこしえの主権は神のもの」であることを知っているはずです。
しかし、大切なことは「神様の主権を知っていること」ではなく「神様の主権に従っていること」です。私たちが「クリスチャン・キリスト者」と呼ばれている理由はここにあります。つまり、私たちは、イエスがキリストであるというキリスト教の教えについての知識を持っている者ではなく、キリストの主権を受け入れ、キリストに人生を捧げる決意をした者であるということです。
それでは、キリストの主権を受け入れ、キリストに人生を捧げる決意とは具体的にどのような生き方を意味しているのでしょうか。まず、大切なことは、聖書全体を「神(主権者)のことば」として受け入れ、みことばに従うことです。この手紙に見ることができる問題は、教会のリーダーの中に聖書の教えから離れる者、聖書に書かれていないことを教える者がいたことです。さらに問題なのは、信徒たちが、神の主権を侵す行為をしているリーダーたちの問題を指摘したり、言うことを聞いてもらえないようであれば、教会から去らせるという行動を取ることができなかったことです。恐らく、間違った教えをするリーダーが神様の絶対的な主権を侵しているという事態の深刻さを理解できなかったのでしょう。
さらに、キリスト教の歴史を見れば、どの時代のどの教派の教会も、何らかの形で神のことばである聖書の教えから離れてしまうという経験があることは明らかです。明らかな間違いが見つかれば「私たちの聖書解釈は間違っていました。」と正直に間違いを認め、訂正すればよいだけです。しかし、残念なことは、歴史が長い教団、教派ほど、自分たちの間違った聖書解釈を認められず、必死に正当化しようとするのです。ですから、平行線をたどる議論は「神学論争」と呼ばれてしまうのです。その理由は、神様の前での謙虚さの反対と言う意味での「高慢」だろうと思います。(1テモテ6:4)
問題は、互いに妥協せず、議論が平行線いなることではありません。真の問題は、神様の主権よりも、自分の宗教団体の運営に都合の良い聖書解釈を優先させているという点です。司祭(神父)も牧師も、心の中では自分たちのある教理が明らかに聖書的でないこと、強引な解釈や正当化の議論をしていることを知っているのに、自分たちの宗教団体のためなのか、議論に負けたくないのか、それを認めないのです。そして、信徒まで、その愚かな議論に引きずり込まれ、自分たちの聖書解釈が正しいと思い込まされてしまうのです。
ですから、私たちすべてのクリスチャンは、神様とそのみことばである聖書の主権について、真剣に考える必要があるのです。私たちは、教団、教派のために存在しているのではありません。「私はカトリックです。」「私はバプテストです。」「私はメソジストです。」「私は保守です。」「私はリベラルです。」「私はエキュメニカルです。」などと言うアイデンティティーも、神様の前では全くの無意味なのです。大切なことは、私たち一人一人が神様の主権を認め、神様のみことばに従うことなのです。もし、私たちが自分の教団、教派を大切にするのであれば、自分の教団、教派が神様の主権、神様のみことばに謙虚に従うことができるように力を尽くすべきなのです。
この点について、あまりにも多くのクリスチャンが無関心、無頓着、またはそれを決め込んでいる(見て見ぬふりをしている)のではないでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道


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