デイリーディボーション 4月28日(火)

150.60.159.37誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 4月28日(火)

2020年4月28日(火)
テモテへの手紙 第二 1:3-5 3私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。4私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。5私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
【ポイント】 ①「純粋な信仰」とは? 日本人の宗教観を鑑みる時に、日本人は、そこで教えられている(信じられている)事柄が本当に「純粋」なものなのか否かを検証する力、または検証するべきであるという感覚が希薄であることを分かります。日本人の最大の関心事は、教えの純粋さではなく、ご利益の確かさ(そのうわさ)だからです。「あそこの合格祈願はよく効くらしい!」といううわさで人々は喜んでその神社仏閣に集まるのです。人々が信じているのは「真理」などではなく、「あそこに行くと幸運が当たる確率が上がる」または、「またはそこでお参りしないと不運が当たる確率が増す」というようなある種の「妄想」なのです。もちろん、そこには人々の真剣な願い、祈りが込められているでしょうし、それらの祈願の中には極めて純粋なものも多く含まれていることでしょう。しかし、ほとんどの人は、その祈願が叶うと謳っている神社仏閣などの信仰、教えが純粋なものであるのかは気にしないのです。
実は、上の話は世界中のクリスチャンにとって他人事ではありません。日本の神社仏閣で起きている現象とほぼ変わらないような、信仰のあり方に陥ってしまっているクリスチャンは少なくないのです。これまで学んできたように、すでにパウロの時代に、教会の中に不純(間違った)教え、信仰を教える者がいたこと、多くのクリスチャンがそれに騙されてしまったことは、パウロの手紙を見れば一目瞭然です。
私たちは「純粋な信仰」を常に追い求め続けることが求められているのです。しかし、それは人々の「宗教的敬虔さ(宗教らしさ)」のイメージを追求することではありません。純粋なイエス様のみことばを求めることです。以前も触れましたが、イエス様の集まりの様子は、当時のユダヤ人の「宗教的敬虔さ」のイメージとはかけ離れたものでした。「19人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:19)イエス様を中心とした交わりの様子は、宗教熱心なユダヤ人から見たら、彼らの定義する「敬虔」とは真逆のものだったのでしょう。しかし、神様(キリスト)の目から見た純粋な信仰は、キリストを愛し、キリストの純粋なみことばを求め、キリストとの交わりを楽しむことだということです。
ですから、私たちは「この世的な敬虔のイメージ」「表面的な敬虔さのイメージ」などが、必ずしも「純粋な信仰」の反映ではないことを知らなくてはならないのです。神様の目は、表面的な宗教熱心さでごまかすことなど絶対にできないことを知らなくてはならないのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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