デイリーディボーション 9月1日(土)

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デイリーディボーション 9月1日(土)

2018年9月1日(土)

コリント人への手紙 第一 13:11-13
11私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

【ポイント】
①永遠の価値を持つものとそうでないものを区別する ーその2ー
多くの人は「変えられたい」という願望を持っています。今の自分から成長し、より良い自分へと成長したいという願いでもあると思います。しかし、その願望の奥底には「自分が他人よりも優れた存在でありたい。」という欲求が潜んでいることが多いのではないでしょうか。この世においては、どんなに純粋でポジティブに見える願望であっても、他人との比較において優位で有りたいという欲望が潜んでいる可能性があるということです。

実は、「自分のクリスチャンとしての成長」という、一見すると純粋な願望の中にも「他の人よりも優れた優れたクリスチャンになりたい」という極めて肉的な欲望が入り込んでいる可能性があります。クリスチャンの中には自分の成長の願望が肉的な欲望から出ているものであることに全く気が付かずに、「異言が語れればより成長したクリスチャンとなれる」などという願いを持ってしまう人がいるのです。というか、教会でそのように教えられてしまうのです。

おそらくパウロが11節の後半の「おとなになったときには、子どものことをやめました。」ということばの意味はそういうことだと思います。つまり、パウロはかつて他のユダヤ人との比較、競争の中で優れたユダヤ人となるために頑張っていましたが、キリストの愛を知った今、そのような幼稚な感覚を捨て、自分の不完全さを認め、神様の恵みのとあわれみの中に生きること決めたのです。パウロにとってはそのような生き方が「おとな」なのです。

何事にも、優劣、順位をつけるという「こども」の習慣を持ち続けている人はいないでしょうか。そのような「こども」の価値観は、教会の交わり、兄弟姉妹の愛を破壊する原因となることを、コリントの教会の問題から学ぶことが大切なのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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