デイリーディボーション 9月22日(土)

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デイリーディボーション 9月22日(土)

2018年9月22日(土)

コリント人への手紙 15:3-7
3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。7その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

【ポイント】
①パウロが受けた福音 ーその3ー
パウロにとって、またすべてのクリスチャンにとって「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」の証拠はキリストの復活です。復活がなければ、キリストの十字架は完全に意味を失います。復活がなければ、イエスのことばはすべて「戯言」です。

「証拠などなくても信じることこそが信仰だ!」と思い込んでいるクリスチャンがいらっしゃるようですが、それは違います。何度もお話していることですね。例えば、ルカの福音書の冒頭を確認してみましょう。

ルカの福音書1章1-4節
1私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、2,3私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。4それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

ルカも「4すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたい」と言っているように、キリストの教の信仰は「事実」の上に成り立っているのです。ですから、福音書の著者や使徒パウロが「証拠などなくても信じることこそが信仰だ!」というような発言を耳にしたら、とても残念に思うことでしょう。そのような信仰理解は、「事実を伝える」という使命に文字通り命をかけた人々の働きを無にするようなものなのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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