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2023年11月22日(水)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 4:7-8 7いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。8あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょう
【ポイント】 ①福音のすべてを理解したという高慢に注意 パウロはここでコリント教会のクリスチャンたちの中に見ることができるある種の「高慢」を指摘しているのではないかと思います。恐らく、彼らの「パウロにつく」「アポロにつく」という論議は、私たちが想像しているよりも学術的なもので、いかにも双方が聖書、福音、そしてパウロやアポロの人間性や信仰のすべてを理解したかのような議論が戦わせられていたのではないかと思われます。
このような場面は、著名人についてコメントしているテレビのコメンテーターなどにも見ることができる現象です。コメントの対象になっている人よりもコメンテーターのほうがその人を深く理解しているような奇妙なことがよく起きています。一方、批評されている著名人が、コメンテーターの発言が全く的外れなものであることにあきれている姿も見ることができます。おそらく、パウロもその議論を聞いて、自分よりも自分のことを良く知っているかのように語る人々、自分よりも正しく福音を理解しているかのように語る人々の高慢さにあきれているのでしょう。
このような現象の理由の一つは、人が福音を知識として理解しようとするとき、または理解できたと思うときに、その知識によって人が高慢になることです。先日あるプロの声楽家の動画を見ていたら、大変興味深いことを話していました。音楽は本来、作曲家が表現しようとしている感情や感覚を感じ取る感性が重要であり、知識や理屈を越えてその素晴らしを受け取ることができるものであり、そのような感性が磨かれていることが音楽を本当の意味で理解するカギになるというのです。しかし、愛好家の中には、自分の感性の不十分な部分を知識で埋めようとする人がいるというのです。つまり、自分の感性ではなく、音楽評論家の批評などから得ることができる知識によって作曲家や演奏家を理解したと勘違いしてしまうのです。おそらく、パウロから見たコリント教会の人々は音楽愛好家が聞きかじりの知識で偉そうに音楽を語っているすがたに似たものを感じ取ったのではないかと思われます。
それでは、私たちクリスチャンが福音を本当の意味で理解するとはどのようなことなのでしょうか。それは、イエス様の愛をそのまま受け取ることです。その時に福音の知識が助けになることは間違いないのですが、神様が私たちに求めているのは愛について理解することでも、愛について評論することでもなく、イエス様のよって明らかにされた神様の愛を知り、その愛を受け取ることなのです。どれほど詳しく、アカデミカルにイエス様の福音、恵み、愛の説明ができたとしても、その知識は愛の受け取り、愛に身を委ねる代わりにはならないのです。残念ながら、現代のキリスト教界においても、イエス様の福音、恵み、愛の評論家が多すぎるのではないでしょうか(知性や理性が欠落した人間的な感情ばかりを重要視する逆の極端も多いですね)。それでは、私たちもパウロから「王さま」と呼ばれてしまうかもしれませんね。
愛の実践についてもパウロは8章1節で次のように指摘しています。「8: 1次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」
今日も、正しい福音の知識に基づきながら、頭でっかちになることなく、素直にイエス様の愛をしっかりと感じ、受け取りましょう。
ライフチャーチ 大谷信道