デイリーディボーション 2月21日(水)

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デイリーディボーション 2月21日(水)

2024年2月21日(水)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 10:15-17 15私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。16私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。17パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
【ポイント】 ①ルールに従うのではなく「自分で判断する力」をつける 信仰上のルール(律法や戒律)を作り、それらを守るように教えることは実に簡単なことです。教える者も、教わる者も、自分の頭で何も考える必要がないからです。また、それらを守れば神様からの祝福を得たり、神様からの好意を得たりすることができると教えれば、人々はそれらのルールを嬉々として守るようになることでしょう。
しかし、そこには神様が私たちに体験させようとされている神の子としての「自由」はありません。私たちがイエス様の十字架によって与えられた自由とは、罪の報酬である死という刑罰からの自由だけではありません。同時に、その自由とは、もはや罪に定められることもなく、旧約聖書の律法に縛られる必要もないので、自分の好き勝手に生きることができるという意味での「自由」でもないのです。私たちに与えられている自由とは、誰かに強要されてでもなく、自分の欲望によるのでもなく、宗教的な習慣からでもなく、私たちの自由な意志から神様を愛することを決め、愛の具体的な応答として、自分の自由な意志(判断)によって、神様を喜ばせ、神様に栄光を帰する行動を選び取ることができる自由なのです。
今日の個所の「私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。」ということばから、使徒パウロが、キリスト者の自由を大事にしていたことがよく分かります。パウロは、自らの自由な意志の中で判断した結果を規則や命令として教えるのではなく、あくまでもコリントの教会のクリスチャン一人ひとりが自分で考え、自分で事の善悪を判断する材料として提供しているのです。パウロから命令されてではなく、自らの意志で偶像礼拝を避けるように変えられて行くことを望んでいることが分かります。
最初に述べたように、パウロにとっては、コリント教会のクリスチャンにクリスチャン生活についてのルールを教えることは簡単なことです。しかし、それではある種の律法主義に陥ってしまう危険性があります。かといって、彼らの自主性だけを尊重してしまえば、(手紙を書いた当時のような)様々な問題が起きてしまうわけです。ここに、教会のリーダーのかじ取りの難しさがあるのです。ただ、そのゴールは明らかです。それは、メンバー一人ひとりが、自らの自由な意志から神様と隣人を愛する者として変えられて行くことなのです。「叱られなければ」「命令されなければ」「怖くされなければ」ではダメなのです。それだと主を恐れることにはなっていますが、主を愛することにはなっていないからです。
ライフチャーチ 大谷信道


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