デイリーディボーション 2月5日(月)

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デイリーディボーション 2月5日(月)

2018年2月5日(月)

【通読】
ローマ人への手紙 6:12-14
12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。14というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

【ポイント】
①罪の抑止力は「律法」ではなく「愛」
新しい一週間もみことばを通して生きて働かれている愛の主との交わりを第一にして歩んで行きましょう!

今日のみことばで最も重要な単語は何だと思いますか?私は12節の「ですから」という一言だと思っています。というのも、「ですから」が指し示している内容が分かっていないと、12節以降の内容を空しい「戒律」にしてしまう可能性があるからです。「罪を犯してはなりません」という命令は、クリスチャンでなくとも、ユダヤ人でなくとも、誰でも知っている倫理だからです。

それでは、12節の「ですから」は何を指しているのでしょうか。6章の1節から11節まで全体でが、特に最後の11節に端的に述べられていますね。「12このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

しかし、注意しなければならないのは、1節から11節までは、神様がイエス様を通してなされた事柄について述べられているわけですが、その背後になる神様の思いは具体的に記されていない点です。そこで、私たちは、「なぜ神様は私たちを『罪に対しては死んだ者』となり、『キリスト・イエスにあって生きた者』としたいと思われたのかを考えなければなりません。なぜでしょうか?

それは、ヨハネの福音書3章16節などにはっきりと記されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そうです、すべては神様の私たちに対する愛ゆえにおこなれたことなのです。

ということは、12節の「ですから」が指している内容を、聖書全体の文脈から考えると、「神様がそこまでしてあなたに対する愛を示し、あなた罪から解放し、生きる者とされたのだから」となるのです。

おそらく、ユダヤ主義的、律法主義的な人々は、「律法がなければ人々は罪を犯し続けるはず」という前提を持っていたのでしょう。つまり、律法は罪の抑止力であると信じていたのです。しかし、そのような考え方は「核の脅威が戦争の抑止力であって、平和維持に不可欠だ」という論理と似ていて、誰でもが本来はそうであってはいけないと知っているものなのです。

罪を止める本当の力、根拠は神様の私たちに対する「愛」以外にないのです。子どもが悪いことから遠ざかり、健全に育つために本当に必要なのは家庭内の厳しいルールと体罰ではなく、親の無条件の愛と赦しであると誰でもが知っているのと同じなのです。厳しいルールでしつけを受けると、親がいないところでは意地悪をしたり、威張ったりする子どもが多いようです。一方、親の豊かな愛情と赦しのなかで育っている子どもは、親の目があってもなくても、正しいことを選ぶ力がより備わっていることが多いようです。同じように、神様の愛によって導かれている人は、律法の有無にかかわらず、神様の前に正しいことを選びたいという思いが与えられるのです。

ルールや体罰、つまり恐怖で人を支配するほうが、支配する側も、支配される側も楽なのです。一方、愛の支配は、支配する側には忍耐や寛容が求められ、支配される側は正しい事を選ぶ際に大きな葛藤や誘惑を覚えます。この点について明日以降詳しく学んでいきますが、私たちは、「楽」ではなく「大変」な方の生き方に導かれていることだけは覚えておきましょう。

ライフチャーチ
大谷信道


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