デイリーディボーション 3月15日(木)

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デイリーディボーション 3月15日(木)

2018年3月15日(木)

【通読】
ローマ人への手紙 9:19-20
19すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」20しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。

【ポイント】
①「神様の御心」と「人間の意志」
パウロは18節でこのように主張しました。「18こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」パウロは、このことばに対する反論を予想して、その反論に対して20節以降で応えているわけです。

確かに、パウロのことばを聞けば、ユダヤ人でなくとも、神様が人の心を「みこころのままにかたくなにされる」とするならば、心をかたくなにした人間には罪がないはずだと考えることでしょう。しかし、神様が心をかたくなにされるという表現は、出エジプト記だけで13箇所あります。「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。」(出エジプト7:3)それでは、エジプト王のパロは始めはイスラエルの民に好意的で、突然神様に心をかたくなにされて、イスラエルの民を去らせることを拒むようになったのでしょうか。決してそうではありません。

この世での出来事は後から考えれば、神様の御心が行われたと理解できるわけですが、それは決して神様が私たち人間を操り人形のようにコントロールしているという意味ではないのです。つまり、神様が異邦人の救いのために、わざとユダヤ人に罪を犯させたわけではないということです。神様は人をロボットのように造られず、神様に似た者として、自由な意志も与えられました。なぜなら、プログラミングされた愛は、本当の愛ではないからです。ですから、神様は人間に心を開き神様を愛するようになる可能性と、心をかなくなにして神様に不従順になってしまう可能性の両方を与えられたのです。

さらに、神様はイスラエルの民にご自身の御心について預言者にはっきりと語り、書き取らせ、イスラエルの民が神様の御心を行うために必要なことをすべて行ってくださいました。あとは、神様を愛するようになるのか、こころをかたくなにするかの選択を、人間に委ねられたのです。そのような意味で、心をかたくなにする人がいたとしても、それも神様のみ心であったと言うことができるのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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