誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2017年3月17日(木)
【通読】
ヨハネの福音書 15:11-17
11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。13人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。15わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。17あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
【ポイント】
①大切な部分を見落とさない
バイブルスタディーにおいて大変重要なことは、「つまみ食い」をしないことです。今日の箇所を読んでも、15節の「わたしはあなたがたを友と呼びました。」、16節の「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」という箇所は心に留めても、12節の「12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」、14節の「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」、16節の「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び」というような命令を自分に与えられたものとして受け取り、実践の決意をしなければ、自分の好きな箇所だけをつまみ食いすることになってしまいます。
私たちは自分の欲求を満たすことが幸せだと感じるものです。例えば、「こういう賜物が欲しい!」とか、「主のためにこんな働きがしたい!」というような事柄についても、それが本当に主の栄光のためなのか、それとも自分の夢の実現なのかを真剣に考えなければ、クリスチャンとしての歩みも結局、自分の喜びのため、自分の栄光のためになってしまう可能性があるのです。
ですから、イエス様はルカの福音書9章で「23イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」と教えられたのです。ルカはマタイに記されていない「日々」ということばを入れています。つまり、私たち毎日、自分の欲求、欲望を捨て、主の栄光のために、主のみことばに従い続けるという歩みが求められているということです。
②聖霊は愛の一致に導く
イエス様の戒めは「相互愛」です。御霊の実で一番最初にあげられているのは「愛」です(ガラテヤ5:22)。聖霊に満たされたいと強く願っているクリスチャンがどんなに集まっていたとしても、異言、預言、癒やしなどの賜物を持っているクリスチャンが集まっていたとしても、その教会に「愛」の実が結び、一致が保たれていなければ、そこで起こっていることは聖霊の働きではないことが明白です。ですから、私たちクリスチャンが本当に気にしなければならないポイントは、自分が聖霊で満たされているかどうか、その実感を得られるかどうかなどということではなく、自分の教会、自分の家庭に御霊の実である「愛」が実を結んでいるのかどうかということなのです。そして、イエス様の戒めである「相互愛」が実践され、一致が保たれている教会、家庭にいるクリスチャンこそが、本当の意味で聖霊に満たされているクリスチャンだということを覚えておきましょう!
ライフチャーチ
大谷信道