デイリーディボーション 3月20日(月)

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デイリーディボーション 3月20日(月)

2017年3月20日(月)

【通読】
ヨハネの福音書 16:1-11
1これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。2人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。3彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。4しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。5しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。6かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

【ポイント】
①「あなたがつまずくことのないため」の理由
先週のディボーション、また昨日の礼拝の中で、イエス様を信じると世が私たちを憎むようにという事実を学びました。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
」「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」(17:14)

しかし、「世に憎まれること」にどのような問題があるのでしょうか。「つまずくことのないため」ではありません。「人々がつまずいた結果」こそが最大の問題なのです。それは、群れ(教会)の崩壊です。15章の「ぶどうの木」のたとえもから、「互いに愛し合う」という命令も、最終的には昨日礼拝の中で学んだ「それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」というポイントに達するのです。つまり、弟子たちが互いに愛し合い、赦し合い、一致を保ち続けることです。

信仰が個人的な祝福のためだと思いこんでいる人は、このポイントを理解でできないことでしょう。しかし、イエス様のみことばを先入観なしにきちんと読む人には、イエス様の計画が「弟子たちの群れ」を形成し、個人にではなくその群れ、つまり「教会」にご自分の計画を委ねられていることが分かるはずです。つまり、イエス様が迫害の予告をされ、つまずかないように注意されている理由は、弟子たちが一人去り、二人去りというような事が起きないようにするため、群れが最後まで使命を全うすることができるようにするためなのです。

②聖霊のはたらきも同じ
7節以降で記されている「聖霊が与えられる約束」のポイントも同じです。世を去るイエス様の代わりに群れを養わせるというのがイエス様の計画なのです。ですから、本当にイエス・キリストの御霊が働くところには必ず愛、一致という実が結ぶのです。自分たちが聖霊で満たされていると信じ切っていても、教会に相互愛、赦し合い、一致ではなく、争い、分裂、分派などの実が結んでいるとすれば、それは決して聖霊の働き以外のものによって実を結んでいることが明らかなのです。反対に、「聖霊の働き」をそれほど強調して教えていない教会であっても、愛の実が結んでいれば、その群れの一人一人が聖霊で満たされ、聖霊の導きに忠実に従っていることが分かるのです。もし「聖霊派」というようなことばを使うのであれば、愛の実を結んでいる教会こそが真の聖霊派の教会であるのではないでしょうか。

ライフチャーチ
大谷信道


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