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2017年3月28日(火)
【通読】
ヨハネの福音書 18:1-9
1イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。2ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。3そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。4イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。5彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。6イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。7そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。8イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」9それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
【ポイント】
①イエス様の葛藤を知る
イエス様の目的は、神の小羊として人々の罪を贖うことでした。しかし、それは無念の死ではなく、神の栄光を現すものであり、ご自身も栄光を受けるものでした。ですから、使徒ヨハネは目的の達成に向かって積極的に十字架に向かっていくイエス様の姿を記録しています。(5節~8節)
一方、ヨハネ以外の福音書(共観福音書)では、イエス様はゲッセマネの祈りでは「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 (マタイ26:39)と、十字架への道に躊躇を覚えているようにも見える記述があります。
バイブルスタディーに真面目に取り組めば、今日の箇所のように共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネの福音書の記述が一致していないことにすぐに気がつくことでしょう。ここで大切なことは、「頭でっかち」にならないことです。つまり、数学の勉強をするような態度で聖書を学ぶ必要はないということです。例えば「1+1=2」という事実は、どの時代でも、どこの国にいっても、どの言語を話す人々にとっても絶対に変わることがない数学的な真理です。しかし、死んだおじいちゃんの思い出を語る時に、ある孫は「おじいちゃんは優しかった。」といい、他の孫は「おじいちゃんはこわかった」とします。その両者の証言は矛盾しているように見えますが、その思い出話をしている人たちは、その両方が本当のこと、つまり「真理」であることを知っています。どちらの証言が正しいのか議論する人はいないでしょう。神様の作られた人間は極めて複雑な存在であり、「優しさ」と「こわさ」という相矛盾する性質が病的にではなく、健全な状態で共存し得る存在なのです。
イエス様についても同様なのです。イエス様が全人類の罪を背負い、十字架で永遠の死を味わうことにある種の恐れを感じていたことも事実ですし、自分の使命として喜んで十字架に向かって進んでいることも事実なのです。ヨハネ他の福音書のどちらが正しいのか議論する必要はありません。イエス様を直接知っている人は、どちらの記述をみても、「その通りだったんですよ!」と感じるはずなのです。そのような判断があったからこそ、ヨハネの福音書が4福音書の一つとして加えられているのです。過去のクリスチャンたちが、矛盾に気が付かず、見過ごしてしまったわけではないのです。
ライフチャーチ
大谷信道