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2017年4月2日(土)
【通読】
ヨハネの福音書 18:19-24
19そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。20イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。21なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」22イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。23イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」24アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。
【ポイント】
①公明であること、正直であることが大切
イエス様の言動の透明性についてこれまで何度も学んできました。20節に「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。」とある通り、イエス様は意識的に透明性大切にされていたのです。
私たちの暮らす日本では、2001年に情報公開法が施行されたりと、この十数年で「透明性」についてすいぶんと前進してきたと思いますが、原発事故、豊洲市場の問題、学校のいじめ問題などを見ていても、都合が悪い事実は隠してしまおうという「隠蔽体質」が社会全体に強く残っていることを感じます。
しかし、隠蔽体質が強い社会に暮らしているからこそ、私たちはイエス様の透明性、公明さ、正直さに驚かされるのではないでしょうか。イエス様の言動だけでなく、聖書全体について、イスラエルの民が犯した罪、歴代の王たちの失敗(民族の恥)など隠すことなく記してきたことに、聖書の健全さを感じるのではないでしょうか。
イエス様は常に人々の前で何も隠すことなく語り、弟子たちと寝食を共にし、全てをさらけ出し生活していました。もし、イエス様と行動を共にしていた弟子たちが、イエス様に教えと行いの矛盾を見出していたとすれば、イエス様の十字架の後も、イエス様の弟子として命がけで伝道を続けるようなことはしなかったことでしょう。そのような意味で、イエス様の透明性は、倫理的であるだけでなく、イエス様がキリストである証拠ともなるのです。
ライフチャーチ
大谷信道