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2017年4月11日(火)
【通読】
ヨハネの福音書 19:25-27
25兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。26イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。27それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
【ポイント】
①女性の働き
驚くことに、どの福音書も、イエス様の十字架での死、埋葬、復活の直接の目撃者は女性たちであったと記録しています。実は、この事実は、福音書の記述の真実さを裏付けるものであると考えられます。もし、イエス様の十字架、埋葬、復活が弟子たちの作り話しであったとすれば、自分たち、または別の男性を目撃者に仕立てたほうがより「真実味」を帯びさせることができたことでしょう。
一方、ヨハネの福音書と他の3つの福音書(共観福音書)の違いを見ることもできます。共観福音書では、「また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。」(マルコ15:40)と、女性たちが離れたところから十字架を見守っていたと記述していますが、今日の箇所でヨハネは「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。」と証言しています。
距離の感じ方は主観的なものかもしれませんが、実際にその場にいたと思われる使徒ヨハネは、それがイエス様のすぐ近くであったと、先に書かれていたと思われる共観福音書の記述を訂正(補足)しています。とはいえ、どの福音書も、女性たちがイエス様の十字架を目視できる距離にいた、直接の目撃者としていることは共通しています。
②神の家族
例えば、マタイの福音書12章48節で、イエス様を心配して尋ねてきた母マリヤと兄弟たちについて、イエス様が「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」と語っていることなどから、イエス様の母マリヤ、兄弟たちに対する態度がどこか冷たいものであるという印象を持っている人がいるのではないでしょうか。しかし、今日の箇所をみると、全くそうではなかったことが分かります。
確かに、この箇所でもイエス様は、母マリヤを「私の母」ではなく「女の方」と呼んでいます。しかし、ヨハネに「あなたの母がいます。」と言っていることから、イエス様がマリヤを母として愛していたこと、そしてヨハネに自分の代わりにマリアを母として迎え、世話をするように指示していることが分かるのです。ここから、イエス様のマリヤに対する愛、信仰のないご自分の兄弟たち以上にヨハネを信頼していた姿を見ることができます。これが、イエス様が望まれている互いに愛し合う姿、神の家族の姿を見ることができます。
私の実際の経験からの話なのですが、私たちクリスチャンが肉体の死を迎える時、私たちにとって最も近い存在、死に向かう自分の思いを一番理解してくれている存在は、教会のメンバーなのです。もちろん、そこにはクリスチャンである自分の家族が含まれていることもあります。しかし、大変残念なことに、夫婦であっても、肉親であっても、イエス様への信仰を共有していない人達と、これからイエス様と直接お会いすることができる喜び、希望を心から分かち合うことはできないのです。
自分の最期の時を想像してみましょう。イエス様にお会いする希望を持ちながらも、肉体の死に対する不安も感じることでしょう。その時に、希望を共有している神の家族は、場合によっては実際の家族よりも近く感じるのです。若いうちは、自分の死について考えることは少ないことでしょう。しかし、今日の箇所を読み、自分の死について想像すれば、神の家族がいかに大切であるのかを理解できるのではないでしょうか。
ライフチャーチ
大谷信道