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2021年4月15日(木)
ヨハネの手紙第一 5:3-5 3神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。4なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
【ポイント】 ①「強制」か「自主的」か? イエス様を愛する者は、イエス様から命令を受ける時に、「私は、隣人を愛さなければならない」という決意に導かれます。しかし、「愛さなければならない」という日本語は、あなたにとってどのような意味なのでしょうか。「義務」や「強制」でしょうか?
「愛さなければならない」とは、決して自分の意志に反して義務的、強制的に愛を実践するということではありません。自らの意志、自らの喜びとして「愛すること」を自分に課すときにも「私は、隣人を愛さなければならない」という宣言をする人もいることでしょう。
今日の個所で「その命令は重荷とはなりません」と教えられている理由は、ここにあるのだと思います。つまり、神様の愛を知り、神様の愛を受け、神様の愛で満たされ、神様の愛で平安に導き入れられている私たちクリスチャンは、その当然の結果として神様を愛し、隣人を愛するという生き方を、自らの意志、自らの喜びとして選び取ることができるのです。人から押し付けられた命令ではないので、それは重荷とはならないのです。
②「恐怖・不安」か「喜び」か? 「強制」や「義務」ではなく、自らの意志でキリストの命令に従っていると感じているクリスチャンもたくさんいることでしょう。しかし、ここにも落とし穴があります。私は、生命保険に入っています。これは、自らの意志で入ることを決めました。しかし、この意志を動かしているのは「不安」であって「喜び」ではありません。同じように、将来の不安に動かされて「救い」や「天国の約束」を求める人は少なくありません。「信仰」は自ら選び取った者であると思っているとしても、それが不安解消のための手段になっているとしたら、そこであなたを動かしているのは「喜び」ではなく「不安」なのです。私たちが自分の不安の解消のために神様を利用しているとしたら、神様が喜ばれるはずはありません。
③「取引・ディール」か「喜び」か? 生命保険の例から、もう一点考えてみましょう。生命保険は商品ですから、私たちはそのサービスを得るために対価を支払います。保険はこの取引によって成立しているわけです。取引とはいえ、何かあった時には、自分が支払った金額よりもずっと多くの保険金を手にできるわけですから、中には喜んで契約する人もいることでしょう(その喜びは、あくまでの不安の裏返しであることは先に説明しましたね)。「信仰」について同じように考えている人はいないでしょうか。神様を信じる、神様に従う、献金する、奉仕することが、永遠のいのちをもらうための取引・ディールになっている人はいないでしょうか。得だとおもって、喜んで保険料を支払っている人のように、永遠のいのち獲得するとても良い取引として、得をしたという喜びを感じながら神様に仕えている人はいないでしょうか。キリストの者の喜びは、神様との愛の関係によって与えられる喜びであり、良い取引(ディール)ができた(得をした)喜びなどでは決してないのです。
キリストの命令が「重荷」でない唯一の理由は、私たちがキリストの愛によって動かされているからであることを決して忘れてはなりません。また「重荷」と感じてないとしても、キリストの愛によって動かされているのでなければ、本当の意味でキリストの命令に従っていることにならないことも覚えておきましょう!
ライフチャーチ 大谷信道