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2017年4月17日(月)
【通読】
ヨハネの福音書 20:11-18
11しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。13彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」14彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」16イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」18マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
【ポイント】
①「わたしにすがりついていてはいけません」とは?
今日の箇所で「ちょっと意味が分からない」と感じる箇所は17節の「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」という部分ではないでしょうか。イエス様がマグダラのマリヤに対して妙に冷たい態度を取っているかのように見えるので、違和感を覚えるのです。
元のギリシャ語を理解できれば、疑問はすぐに解決できます。しかし、その前に、「イエス様がマグダラのマリヤに冷たく接する理由があるのか?」「イエス様の態度が冷たいという印象が正しいのかを考えることも大切です。」バイブルスタディー(あらゆる読書)の基本中の基本は「文脈」「前後関係」から内容を理解することです。突然文脈にそぐわないと思える箇所がでてきたとしたら、自分の理解の方が文脈を無視したものになっているのではないかと、自分自身を疑うのです。そのような視点から考え直すと、今日の箇所でイエス様がマリヤを冷たくあしらっていると理解することは不適切であることに気づくことができるでしょう。
とは言え、イエス様はマリヤがイエス様に「すがりつく」ことを止めるように言われているわけですから、その真意を考えてみましょう。イエス様が「わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」と説明されていることから、イエス様が天の父のもとに上られるので、マリヤがイエス様のからだを離さないとそれを行なうことができないことが分かります。ですから、イエス様は単に、「ほらマリヤ、そんなに強くしがみついていたら、前に進めないじゃないか。あなたの気持ちはよく分かるけれども、私は父のもとにいかなければならないんだよ。」と言うような感じなのです。幼稚園や保育園の玄関で、仕事に行かなければならないお父さんやお母さんの足に小さな子どもがしがみついて泣いている光景を目にすることがありますが、あのような感じです。
ギリシャ語の文法では、ここで使われている「現在形+否定」の命令文は、今行っている行為を止めることを意味します。つまり、「しがみ続けていることを止めなさい」=「ちょっと離れて」という意味だということが一発で分かります。つまり、「イエス様にすがる」「イエス様に触れる」という行為を禁止したのではなく、「すがり続けていること」を止めるように言われたのです。もちろん、ギリシャ語で新約聖書を読むことは理想的ですが、前後関係からもそれに近い解釈にたどり着くことができる場合が多いと思います。
②イエス様との霊的な交わりへのステップ
文章の意味が理解できたところで、もう少し内容を深めてみましょう。確かに、イエス様はマグダラのマリヤにご自分の体に「すがり続けること」を止めるように言いましたが、それはイエス様の肉体への執着を捨てることを意味しているとも思えます。なぜなら、マリヤだけでなく、使徒たち、イエス・キリストを信じる全ての者は、私たちの肉体の目では見ることができず、手で触れることもできないけれども、確かに生きておられ、私たち共にいて下さり、私たちをを愛して下さるキリストと
それまでの目に見える肉体を通しての交わりから、霊的な交わりへ移行していくことが求められているからです。イエス様の肉体を離し、イエス様が天に昇られたからこそ、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)というイエス様の約束が実現したのです。
ライフチャーチ
大谷信道