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2017年4月19日(水)
【通読】
ヨハネの福音書 20:24-29
24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
【ポイント】
①トマスの不信仰?
一般的にトマスは「疑い深い人」「不信仰」と言うようなレッテルが貼られてしまっていることが多いのではないかと思いますが、本当にそうなのでしょうか。ルカの福音書24章9-11節を見てみましょう。「9そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。10この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。11ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」このように、イエス様が復活したという報告を信じられたなかったのはトマスだけでなかったことが分かります。トマスも他の弟子たちも復活のイエス様に直接会って、初めてイエス様の復活を信じることができたのです。
②トマスのエピソードは後のクリスチャンのためのメッセージ
とすれば、なぜヨハネはわざわざトマスの出来事に福音書の貴重な紙面を割いたのでしょうか。恐らく、復活のイエス様に直接合うことができない人々に対して重要なメッセージが込められていると考えたからではないでしょうか。それは、復活のイエス様を自分の目で見ることができなくても、それを見た使徒たちの「証し」を信じなさいというものです。27節の「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」、29節の「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」というトマスに向けられたイエス様のことばは、福音書を読むもの全てに向けられたメッセージでもあるということです。
私たちの信仰は、イエス様が復活したという使徒たちの証言の上に立てられています。日曜日の礼拝でもお話しましたが、イエス様が十字架の上で苦しまれ、死なれたことは歴史的なのですが、もし、イエス様の復活が事実でなかったとしたら、私たちの信仰はその根拠を完全に失うことになるからです。福音書に記録されているイエス様のことば、行いが真実であるという決定的な証拠は、イエス様の復活であるのです。
ですから、使徒ヨハネは、後に、「自分もトマスのように復活のイエス様を直接目で見ることができたら信じられるのに!」と考える人たちが出て来るであることを予測し、「私たちのイエス様の復活の証言を信じてください。」という強いメッセージ(イエス様自身の命令)を記したのでしょう。
ライフチャーチ
大谷信道