デイリーディボーション 4月27日(木)

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デイリーディボーション 4月27日(木)

2017年4月27日(木)

【通読】
マタイの福音書 2:1-12
1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。11そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

【ポイント】
①処女降誕の理解
処女降誕(処女懐胎)がイエス・キリストを信じる上での絶対的な要件なのか否か、または、イエスがキリストであるという証拠として、処女降誕が必要不可欠な事柄であるのかという質問に対し、昨日私は「そうではない。」という個人的な考えを述べさせていただきました。その理由は、マリヤの聖霊によって身ごもったという経験はマリヤ以外の証人がいないということ、さらに、ヨセフの夢の中での「お告げ」も本人以外の証人がいないという点です。一方、イエス様の復活については、多くの目撃者、証人が存在し、2000年以上経過した今でも、それが事実であった可能性が極めて高いという結論に達することができます。ですから、私たちがイエスがキリストであると確認し、信じるには復活の証言だけで十分だということなのです。

事実、マルコの福音書とヨハネの福音書には、処女降誕のエピソードは収められていません。福音書は別々の書物として独立して書かれたものですから、マルコとヨハネの福音書の著者は、処女降誕のエピソードはイエス様の福音を宣べ伝える上で絶対的に必要なものではないと判断していたことが分かります。マルコ、ヨハネの福音書しか読むチャンスがなかった人は、処女降誕のことを知らずに、信仰に導かれたわけです。

②それでは、処女降誕は嘘なのか?
私はこれまで、イエスがキリストであると信じ、イエス様を愛し、救われるという信仰のプロセスの中で、「処女降誕」についての知識、それが事実であると信じる確信は絶対条件ではないと考えていると述べてきました。万が一、マタイとルカの福音書がこの世に存在していなくても、または、処女降誕が事実でないと証明されたとしても、旧約聖書、それ以外の新約聖書の記述から、イエスがキリストであるという、私の個人的な確信は全く揺るがないと考えています。

それでは、マタイとルカの福音書に記されている処女降誕が作り話、嘘であると考えているのかというと、全くそうではありません。むしろ、イエス様の復活が事実であると確認し、信じた後は、「イエス様が本当にキリストであるのなら、そのような不思議なことを神様が行われることもあるだろう。」と、マリヤ、ヨセフの証言が事実なのだろうと信じています。神様が私たちの常識を遥かに越えた業を行なうことができる方であると信じる、ある種の謙虚さを復活の出来事を通して学んでいるからです。

ライフチャーチ
大谷信道


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