デイリーディボーション 4月28日(金)

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デイリーディボーション 4月28日(金)

2017年4月28日(金)

【通読】
マタイの福音書 2:13-18
13彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」14そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。16その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。17そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。18「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」

【ポイント】
①イエスの降誕についてのまとめ
皆さんは、マタイ、ルカ福音書に記されているイエスの誕生のエピソードを初めて読んだ時に「えーっ、これって本当の出来事?」、「聖書って神話(フィクション)なの?」「クリスチャンって、こんなバカらしいことを本気で信じてるの?」と疑問を持った人もいることでしょう。当然の感覚だと思います。しかし、反対に、おばけ、占い、様々な迷信、神話、カルト宗教の教祖など、何の根拠も無いものを簡単に信じてしまう人が大勢いることも事実です。それでは、福音書に書かれている内容が客観的に事実に基づいているのかどうかを気にする姿勢と、ご利益を得るためであれば神話を事実として受け入れてしまおうという姿勢のどちらが大切なのでしょうか。そもそも、福音書の著者たちはどのような意図で福音書を欠いたのでしょうか。つまり「事実を伝えるつもり」、「神話、伝説を作り上げるつもり」のどちらなのでしょうか。

ルカは福音書の1章1~3節でこのように語っています。「1,2私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、3私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。4それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」 福音書の著者たちは、作り話ではなく、事実を正確に記すという明確な意図を持っていたことが分かります。

イエス様の誕生にまつわる出来事は、多くの弟子たち、群衆が目撃していた他の奇跡などと違い、特定可能な直接の目撃者はマリヤのみです。マタイもルカもマリヤが事実を語っているという、マリヤに対する信頼をベースにして聞いた話を自分の福音書に載せる決断をしたのでしょう。一方、これは、推測ですがマルコとヨハネもマリヤから同じ証言を聞いていながら、イエスがキリストであることを立証する上で、公生涯前のエピソードは必ずしも必要ないと判断し、自分の福音書には載せなかったのでしょう。

使徒たち、福音書の著者たちは事実を事実として伝えようとしています。実際に起きた出来事からイエスがキリストであると説明しようとしているという点では4福音書とも一致しています。しかし、どの出来事をイエスがキリストであるという証拠として用いるべきかという点については、必ずしも一致していません。その例がイエス様の誕生から公生涯までの出来事です。もし、私たちが家族や友人に福音を伝えようと思った時に、「福音書は信じる価値のない、ただの物語じゃないか!」という印象を与えてしまうのではないかという心配があれば、マルコ、ヨハネの福音書を用いれば良いのです。そして、「聖書の内容は真実なんだな!」という、聖書に対する信頼が増した後、または、信仰を持った後にマタイ、ルカの冒頭を詳しく学んでも遅すぎることはないのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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