デイリーディボーション 4月3日(月)

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デイリーディボーション 4月3日(月)

2017年4月3日(月)

【通読】
ヨハネの福音書 18:25-27
25一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない」と言った。26大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」27それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。

【ポイント】
①「不合格」ではない。
イエス様からの予告にもかかわらず、ペテロがイエス様を知らないと3度言ってしまった出来事から私たちが学ぶべきことは、私たちの弱さ、罪深さについてです。もし、ペテロがイエス様を3度否まなかったとしたら、イエス様の十字架などの出来事が違うものになっていたでしょうか。なっていないでしょう。それとも、これはイエス様からの試験で、ペテロは不合格となってしまったのでしょうか。もし、そうだとしたらそれは何のための試験なのでしょうか。また、不合格だとしたら、何に不合格したことになるのでしょうか。福音書、使徒の働きを読み進めても、ペテロが弟子として不合格になった事実などはありません。むしろ、さらに、強められ、用いられていくのです。

このように考えると、この出来事は試験などではなく、イエス様から与えられた「気付き」の機会だったと言えるのではないでしょうか。確かに、ルカの福音書5章8節を見ると、ペテロはイエス様に招かれた時に、すでに自分の罪深さについて気付かされています。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。」
しかし、イエス様はペテロのもとを去っていくにあたって、再度ペテロに「自分の覚悟」、「自分の努力」の限界、「イエス様の正しさ」を教えようと思われたのでしょう。ペテロは死んでもイエス様を裏切ることなどないという確信、イエス様への忠誠の自信を持っていました。しかし、皮肉にもその確信、自信は、イエス様のことばが間違っているという確信でもあったのです。ですから、人間的には失敗に見える経験は、実は自分の間違いに気付き、イエス様のみことばを信じる大切さに気づく機会だったのです。

②信仰の歩みに失敗はない
そのような意味で、私たちも何らかの失敗をした時事が、信仰を新たにするチャンスであることを知るべきです。もし、信仰の歩みに失敗があるとすれば、犯してしまった失敗そのものではなく、その経験を通して、イエス様のみことば、約束を信じていなかったこと原因であったことに気づかないことです。

ペテロのように繰り返し失敗をしながら、その原因がイエス様のことばを信じなかったことに原因があることに気づけば、私たちはペテロのようにイエス様への信頼を深め続けることができるのです。大切なことは、同じ失敗を繰り返さないように注意することではなく、自分は罪深く、すぐに失敗する者であるから、イエス様のみことば、約束に信頼し続けなければダメだということに気づくことなのです。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

ライフチャーチ
大谷信道


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