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2017年4月5日(水)
【通読】
ヨハネの福音書 18:33-37
33そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」34イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」35ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」36イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」37そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
【ポイント】
①十字架に向かうイエス様
イエス様は、刑を免れるために自己を正当化するような答弁を一切していません。むしろ、自らの意思で十字架刑を受ける方向に進んでいるように見えます。一方、ピラトはイエス様に何の罪も見出すことができないので、なんとかイエス様を無罪放免にしたいと思っています。ここに、二人の会話が噛み合っていない原因があります。ピラトは、イエス様から「自分はユダヤ人の王などではない。」という証言を引き出せば、無罪にできると考えたのでしょう。つまり、イエス様が勝手に王国を作ったり、反乱などを起こしたりする意思が全くないことが確認できればローマ帝国の法律に触れることもなく、釈放できると考えていたのです。とにかく、ピラトはイエス様の「自分は王ではない」という自供を引き出し、ユダヤ人を納得させ、この面倒な一件を終わらせたいと思っていたのでしょう。
しかし、イエス様はご自身が王であるという真理を否定されませんでした。
イエス様がユダヤ人指導者たちが主張しているような政治的、軍事的なちからを持つ、この世的な王でないことは明らかなのです。しかし、すでに十字架で贖いの業を成し遂げようと決められているイエス様は、細かな説明をすることなく、ご自分が王であるという真理を証しし続けたのです。
このイエス様の姿勢は極めて重要です。なぜなら、イエス様の十字架の出来事は、ユダヤ人たちに陥れられてでも、ピラトの判断ミスによってでもなく、天の父の御心、イエス様ご自身の御心によって実現したのであり、そこに人間的な計画、意思が介在していることはないからです。イエス様は十字架につけられてしまったのではなく、自分から進んで十字架につかれ、天の父がイエス様を処刑されたのです。ですから、イエス様の十字架の責任は、ユダヤ人にも、ピラトにもないのです。もちろん、メシアを拒絶したという彼らの罪深さは明らかですが、十字架に関しては、全ての責任は天の父とイエス様にあるのです。
ライフチャーチ
大谷信道