デイリーディボーション 4月6日(木)

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デイリーディボーション 4月6日(木)

2017年4月6日(木)

【通読】
ヨハネの福音書 18:38-40
38ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。39しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」40すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。

【ポイント】
①欲望によって動かされていることに気づく
日曜日のメッセージでは、結局のところ全ての人が「我欲」によって動かされていることを確認しました。あらゆる宗教においても、結局のところまつられている神々は、自分の欲望、欲求を満たしてくれる存在となっています。宗教的行為についても、自分の夢を叶えてくれるのであれば、多少の犠牲はしかたないという計算があるのです。

私たちクリスチャンも同じような部分を持っているはずです。同じ罪深い人間ですから、我欲を満たしたいという欲求があって当然なのです。弟子たちも、イエス様の十字架の直前まで、「偉くなりたい」という我欲を強く持っていたことが明らかです(ルカ22:24)。

本当に問題なのは、自分は全く我欲が全く無いかのようなふりをすることです。この点については一昨日も触れましたが、大変重要なポイントなのでもう一度確認しておきましょう。ユダヤ人指導者たちは、自分たちの既得権益を守りたいという一番の本音を隠し、「自分たちの国、信仰を守る」という大義名分を用いイエス様を告発しました。

イエス様がイスラエルの独立を実現してくれると勝手な期待をしていた人々は、自分の希望を叶えてくれなかった、期待が裏切られたと感じ、手のひらを返したようにイエス様を責め立て、強盗を働いたバラバを釈放してくれと叫び続けたのです。

ですから、私たちは、日々の生活の中で何事についても、「これは我欲から来ているのか、それとも神様の栄光のためやっているのか?」と繰り返し自分に問いかけることが大切なのです。特に、「牧師になりたい」「伝道者になりたい」「宣教師になりたい」という思いが与えられたときなどは、それらの思いはいかにも神様の御心のように見えるので注意が必要です。献身の思いの中に「自分の夢の実現」、「現実からの逃避」などの肉的な思いが入り込んでいないのか注意深く自己を観察することが重要です。その他にも、「これは絶対に神様の御心に違いない!」と思っている事柄があれば、それが本当に純粋なものなのか、イエス様のみことばに矛盾していないのか考えるのです。

私たちは、自分が考えているよりもずっと大きく我欲の影響を受けています。大切なことは、この事実を知り、認め、受け入れることです。自分は我欲の影響など全く受けていないと信じ込んでしまうと、対処のしようがなくなってしまうのです。「あ、また我欲が湧いてきたな!」「また自己中心の癖がでてしまったな!」と気づけば、軌道修正することができるのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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