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2017年4月8日(土)
【通読】
ヨハネの福音書 19:17-22
17彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。18彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。19ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。20それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。21そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。22ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
【ポイント】
①ピラトの抵抗
ピラトはイエス様の無罪を確信していました(19:4)。しかし、群衆の「。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
(19:12)というような脅しに近いような主張に対し、自らの確信とは違う、十字架刑という判決を下しました。政治の世界は「ギブ・アンド・テイク」が常ですから、ピラトとしてはユダヤ人に恩を売っておく機会であったかもしれません。しかし、今日の箇所を読むと、自分の決定が不本意であると感じていることは明らかです。
そこで、ピラトはイエス様の罪状書きに「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書きました。これを見た祭司長たちは「自称ユダヤ人の王」にして欲しいと願いますが、ピラトはその願い聞き入れませんでした。実際、自称ユダヤ人の王だけでは十字架刑に処することはできないのでしょう。人々がその人を王と認め、王国を樹立する企てをしていたなどの証拠あって、初めてローマ帝国への反逆だとされるはずだからです。ですから、ピラトは「イエス様が十字架にかけられているのは、おまえたちユダヤ人がイエス様を王と認めたからではないか!」と皮肉を込めたのです。
このピラトの皮肉は、霊的な真理を表していました。ヨハネの黙示録1章5-6節を見てみましょう。「5また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、6また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」
ユダヤ人たちはイエス様を王として迎えることを拒絶しました。私たちは、イエス・キリストを自分の王として迎えているでしょうか。その王国の誠実な国民として、王であるキリストの愛のご支配の中に歩んでいるでしょうか。
ライフチャーチ
大谷信道