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2017年5月1日(月)
【通読】
マタイの福音書 3:1-6
1そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」3この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。4このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。5さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、6自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
【ポイント】
①「悔い改め」とは?
本日の箇所を読むとイエス様が活動を始める前に、「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域」から人々がバプテスマのヨハネの所に集まってくるという、大きなムーブメントが起きていたことが分かります。そして、そのムーブメントの中心は「悔い改め」でした。悔い改めの具体的な行動としては、「罪の告白」と「バプテスマ」であることが分かります。
「罪の告白」ということばから、「悔い改め」とは、神様の前での自分の罪深さを認めることだと言うことが分かります。多くの人は、自分の罪深さ、その深刻さについて気がついていません。特に日本人の多くは「自分は決して悪い人間ではない」という自己認知の中で生きていると思われます。その理由は、正しさの尺度、良心の基準が「人に迷惑かけてはならない」程度のものだからです。または、自分の罪深さにどこかで気がついていたとしても、自分の問題を直視するために自分の心にメスを入れることは、大きな痛みを伴うので、見て見ぬふりをしている人も大勢いるからです。ヨハネが悔い改めを呼びかけていたということは、当時のユダヤ人たちも、自分たちの罪深さの問題を大変いい加減に取り扱っていたことがうかがえます。
しかし、神様の絶対的な正しさ、聖さに触れ、その基準から自分を見つめ直すと、自分が神様の前ではどれだけ自己中心的で、利己主義的であるのかを知ることができるのです。自分では気が付かなかった罪深さ、見て見ぬふりをしていた汚れを正直に見るようになるのです。悔い改めの第一歩は、神様の絶対的な正しさから、自分の罪深さ正直に直視し、認めることなのです。
②「悔い改め」はゴールではない
自分の罪深さに気づいた人はバプテスマのヨハネのもとに集まり、正直に罪を認めた証しとして「罪の告白」をし、新しい生き方をしていく決心の証しとして「バプテスマ」を受けました。しかし、これで本当に問題の解決になるのでしょうか。罪の悔い改めのバプテスマを授かった人は、今後二度と罪を犯さないで生きていくことができるのでしょうか。そうではないことは、誰にでも想像できますね。つまり、悔い改めは罪の問題の解決(ゴール)ではなく、スタート地点であるのです。マタイがイザヤの「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」という預言を引用しているように、バプテスマのヨハネの働きは、罪の問題の完全な解決、罪からの救いを求めさせるための準備だったということです。
ライフチャーチ
大谷信道