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2017年5月12日(金)
【通読】
マタイの福音書 5:1-5
1この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。4悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。5柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
【ポイント】
①山上の説教を理解する
癒やしのうわさを聞きつけた大勢の人々がイエス様のところに集まってきました。しかし、イエス様は人々のニーズに応え「癒やしのための集会」を行なうのではなく、「説教」を始められました。もちろん、多くの人がイエス様の声が聞こえたと思いますが、1、2節を見ると、イエス様は近くにいた弟子たちに対して語られたことが分かります。この「山上の説教」と呼ばれている教えは、まだすべてを理解しているわけでは無いが、イエス様を信じ、イエス様に従い、天国、つまり神様の支配を受け入れた人々に語られているのです。
ということは、イエス様は「天国に行くための条件」「クリスチャンになるための方法」を教えているのでは無いということです。むしろ、イエス・キリストを主と信じ、従った者がその結果として結ぶ「実」について語られているのです。これらの「実」はイエス・キリストを信じてすぐに結ぶものもあれば、そうでないものあると思われます。つまり、この箇所を読む者は、「イエス・キリストを信じると、私はこのように変えられていくのだ!」と、クリスチャンとしての歩みのビジョンを確認することができるのです。
②「心の貧しい人」「悲しむ人」とは?
「心の貧しい人」とは、自分の罪深さに絶望し、「神様の義」を得とくすることについて、自分が全く無力な者であることを知り、イエス・キリストを救い主として信じ、従う決心をしている人のことです。自分の正しさについて「自己破産」を宣言し、キリストの救済措置に身を委ねている人と言っても良いかもしれません。つまり、自分が「霊的な意味での貧しさ」、「破産状態」にあることを知り、認めた人は、「キリストにある幸い」を体験できるということなのです。「悲しむ者」も同じです。自分の救いようのない罪深さは自分の努力によって解決できないことを知った人は、救い主キリストを求め、慰められるということなのです。
イエス様は、弟子たちに「心を貧しくしなさい」という、表面的な倫理について教えているのではなく、「あなた方は、心の貧しさに気が付き、自分の罪深さに悲しみ、私を救い主と信じ、従ってきましたね。しかし、あなた方には天の国での祝福が約束されているのですよ!」と、弟子たちが理解していない目に見えない祝福を明らかにされたのです。ここで語られている「幸せ」は、私たちの努力によってではなく、イエス様に身を委ねること、イエス様との関係によってのみ体験できる幸せなのです。
このように、「山上の説教」は、イエス様との個人的な関係を抜きにして理解することはできません。明日以降の箇所に出てくる「幸い」も、イエス様を主と信じ、従っている者が味わうことができる「幸い」であることを覚えておきましょう。
ライフチャーチ
大谷信道