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2015年5月14日(木)
【通読】
1テサロニケ 2:11-12
11また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、12ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。
【ポイント】
①「御国」「栄光」ということばは心に響くか?
この点は極めて重要です。なぜなら、「御国」「栄光」に召されていることが、自分の喜び、自分の生き甲斐、自分の目的になっているのかが分かるからです。「御国」と「栄光」があるからこそ、私たちは困難、迫害、誘惑が常に存在するこの世にあって希望を持つことができるからです。この希望があるからこそ、主に信頼し続け、主に従い続けようとに互いに励まし合うことができるからです。
「主の祈り」の学びの中でも繰り返し「御国」について確認しましたね。イエス様が教えてくださった「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
」という祈りは、みなさんの心からの願い、希望になっているでしょうか。この願いは、神様の国王としての支配が自分自身の中に、そして地上のすべての人の心、生き方にまで及ぶようになる願いです。この願いは私たちからでたものではではなく、神様が求められているものです。主の祈りの中では「みこころ」と呼ばれています。つまり、一般的に使われている天国とは、本来神様の完全な支配と守りが行き渡り、御心のみが行われているところを意味しているのです。
「栄光」とは、神様の本質、本当の姿であり、それは私たちがどのように表現してもし尽くすことができない美しさ、強さ、愛、慈しみを指しています。地上での問題は、私たちはこの栄光を100%見ることができないことにあります。もちろん、イエス様は神様の本質を100%啓示された方ですが、罪の性質を持っている私たちは、性能の悪いラジオ、受信機のように、それをすべて受け取ることができないのです。ですから、私たちクリスチャンの願いは、いつの日か天の父と、そしてキリストを顔を顔を合わせて出会うことであり、その時に完全な慰め、完全な救いを得ることになるのです。
キリストにある「御国」「栄光」への希望以外に私たちの慰めはありません。キリストにある希望以外、つまり人間的な慰めを求めても満たされることはありません。むしろ、人間的な慰めを求めても期待を裏切られ、落胆を深めるだけの結果になる場合が多いでしょう。ですから、パウロは自分の使徒ととしての権威を示したり、自分が人気者になり、人々がパウロ自身につながってしまうことを拒否したのでしょう。それは、すべてのクリスチャンがキリストとの個人的な関係を深め、キリストにある平安、希望に満たされれるためなのでしょう。
【今週の礼拝での聖句】
先週のヨハネ15章9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」を受けてのメッセージです。
イエス様の愛にとどまるために具体的にどのようにしたら良いとイエス様が教えているのでしょうか。
①イエス・キリストの戒めを守る(10節)
「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」
②互いに愛し合う:模範はイエス・キリスト(13節)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
③教会・夫婦・親子から始める(17節)
「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」
「あなたがた」とは、イエスの弟子、つまりイエスを主と信じ従っている人達です。
キリストが教えられたのは「博愛精神」ではなく、まずは「キリスト信じる者同士が愛し合う取り組みを続けること」です。
【今週の祈り】
「主よ、あなたが私と深く関わって下さっていることに感謝します。私の我がままや、自分勝手さを知りながら、あきらめずに、忍耐強く関わり続けてくださるあなたの愛に感謝します。どうか、その愛に動かされ、同じ愛をもって兄弟姉妹を愛する歩みを続けさせて下さい。私の家族、私の教会があなたの命令に一致し、同じ約束の中で愛し合う取り組みを続けていく力を与えて下さい。その取り組みの中で、他の人の愛の少なさが気になったら、自分の愛の足りなさこそに目を向ける者として下さい。」
ライフチャーチ牧師
大谷 信道