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2017年5月15日(月)
【通読】
マタイの福音書 5:10-12
10義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。11わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
【ポイント】
①キリスト者の喜びを知る
これまで「山上の説教」は、イエス・キリストを愛する者、イエス・キリストを信頼する者、イエス・キリストに希望を置く者が体験することができる「幸い」についてイエス様が教えられているものであることを学んできました。そのように理解する根拠は、11節の冒頭の「わたしのために」というイエス様のことばにあります。ここから、イエス様はイエス様を信じ、従ってくる人々のことを頭に浮かべながら話しをしていることが分かるからです。
さらに、11-12節は、3節から10節の「幸いな人」の教え分の結論として見ることができます。つまり、「幸いな人」の教えは、イエス様を信じ、従う人に必ず起こるであろうこの世からの迫害の予告、そして、迫害の中にあってもイエス様を愛し、信頼し続ける者に約束されている「幸い」について教えられているわけです。
イエス様は、イエス様を信じる者にあらゆる患難に出会うことがない「安楽」な生活を約束しているわけではありません。むしろ、様々な困難が起きることを前提とした上で、その中にあってイエス様を信頼し続ける中で「平安」を得ることができる約束をされているのです。この約束こそが私たちクリスチャンの「幸い」「喜び」の源なのです。
ヨハネ 16:33
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
日々の生活で嫌なことばかりが目について「幸い」「喜び」「平安」を感じることができず、ストレスを感じている人、苦しんでいる人、鬱々としている人はいないでしょうか。「あの上司がいなかったら毎日楽しいはずなのに」などと、問題の本質を勘違いしていることはないでしょうか。問題の真の解決は目の前の状況が自分の気にいるようなものに変わることではありません。私たちの間違った思い込みが変えられ、イエス様を信頼していれば必ず心に平安が与えられると信じることにあるのです。
ライフチャーチ
大谷信道