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2015年5月15日(金)
【通読】
1テサロニケ 2:13-16
13こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信
のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなた
がたのうちに働いているのです。14兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。15ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。2:16彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。
【ポイント】
①聖書を神のことばとして受け取る
パウロはテサロニケのクリスチャンが福音を聞いた時にそれを「神のことばとして受け入れた」ことに感謝を表しています。それは、福音、聖書が神のことばであるという概念を受け入れたのではなく、聖書の神のことばとしての権威を「受け入れ」、そのことばに従ったという意味でしょう。
私の経験から話すと、クリスチャンとしての歩みの重要な節目の一つが聖書の権威を認めることであると思います。人間は自分の都合の良いメッセージは喜んで受け入れます。罪の赦し、天国、永遠のいのちの約束などがその類です。しかし、自分にとって都合の悪いメッセージは、「それは現代の私たちに当てはまらない」、「文字通りに捉えなくても良い」などという理由をつけて、受け取ろとしません。もちろん、聖書の前後関係から、イスラエルの民だけに向けられているメッセージはたくさんあります。実際、律法自体は神様がイスラエルの民に与えたものですから、イエス様が弟子たちに守るように教えたもの(例えば十戒)以外は、私たちに向けられているものではないことが明らかです。また、イエス様の「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。」(5:29)というような、極端な言い回しはイエス様独特の話法であることも、明らかです。
しかし、例えば「37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
」(マタイ10:37)などは、聖書全体と照らしあわせれば、決してたとえ話でも、極端な言い回しでもないことが明らかです。つまり、私たちにも向けられているメッセージであり、しっかりと受け取るべき命令であるということがわかります。
②聖書の権威に従うことは、私たちの幸せに直結している
久しぶりに犬の喩えから話します。ある著名なドッグトレーナーは自分の番組の中で繰り返し説明しています。それは、犬は良いリーダーを持ち、そのリーダーに服従するときに初めて情緒、行動面で安定することができ、それが犬にとっても一番の幸せであるというのです。つまり、服従→安定→幸せということです。この点においては、人間も犬も全く違いがないと思っています。イエス・キリストの主権、支配を認めようとしない人の情緒、行動はいつも不安定で、心の中で常に様々な不安と戦っています。表面的に弱さを見せないように振舞っている人も多いですから、一見するとそのように見えない人もいることでしょう。しかし、実際の内面は不安定で不幸せを感じているのです。
クリスチャンでも同じです。キリストを信じた後には、政権交代のように、自分が握っていた主権を一つづつキリストに委ねていくという作業が求められます。つまり、自分の時間、お金の使い方に至るまで、その主導権をキリストに委ねていく作業、プロセスを疎かにしてしまう人は、なかなかイエス様が約束してくださっている平安を味わうことができないのです。自分の縄張りを守るために、外敵に対し常に緊張し、人、他の犬、車、物音、物陰にまで吠えまくっている番犬のような感じです。番犬のほとんどはそのストレスが原因で早死にするそうです。しかし、自分の縄張り捨て、その番(管理)を飼い主に委ねた犬は、飼い主の守りの中で安心して生きて行くことができるのと同じです。
犬の人間を比べることに違和感を覚える人もいるでしょう。しかし、イエス様はご自身が良い羊飼いで、私たちは羊だと言っているではありませんか。羊は犬よりもずっと知能が低い動物ですよね。ですから、神様の前では私たちは犬、羊のような愚かな存在だということは間違いないのです。そして、主人に服従すれば、本当の平安、幸せが与えられるという点も同じなのです。
【今週の礼拝での聖句】
先週のヨハネ15章9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」を受けてのメッセージです。
イエス様の愛にとどまるために具体的にどのようにしたら良いとイエス様が教えているのでしょうか。
①イエス・キリストの戒めを守る(10節)
「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」
②互いに愛し合う:模範はイエス・キリスト(13節)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
③教会・夫婦・親子から始める(17節)
「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」
「あなたがた」とは、イエスの弟子、つまりイエスを主と信じ従っている人達です。
キリストが教えられたのは「博愛精神」ではなく、まずは「キリスト信じる者同士が愛し合う取り組みを続けること」です。
【今週の祈り】
「主よ、あなたが私と深く関わって下さっていることに感謝します。私の我がままや、自分勝手さを知りながら、あきらめずに、忍耐強く関わり続けてくださるあなたの愛に感謝します。どうか、その愛に動かされ、同じ愛をもって兄弟姉妹を愛する歩みを続けさせて下さい。私の家族、私の教会があなたの命令に一致し、同じ約束の中で愛し合う取り組みを続けていく力を与えて下さい。その取り組みの中で、他の人の愛の少なさが気になったら、自分の愛の足りなさこそに目を向ける者として下さい。」
ライフチャーチ牧師
大谷 信道