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2017年5月16日(火)
【通読】
マタイの福音書 5:13-16
13あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。14あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
【ポイント】
①なぜ「地の塩」「世の光」と呼んでくださるのか?
イエス様は弟子たちに「地の塩」、「世の光」になれるように努力しなさいとは命令されているのでしょうか?そうではありません。イエス様は弟子たちがすでに「地の塩」、「世の光」であること宣言されているのです。
それでは、なぜ弟子たちは「地の塩」「世の光」であることができているのでしょうか。それは「塩味」「光」が何を意味しているのかを考えればすぐに分かります。地(この世)を味のあるものに変え、明るいものに変えることができるのは何でしょうか。それは、イエス様ご自身であり、イエス様の福音です。つまり、塩味も光もその源はイエス様であるということです。イエス様を信じ、イエス様のみことばに従う人は、イエス様に似たものとして、イエス様と同じ「味」「光」を醸し出すようになるのです。
ここで重要なポイントは、今日の箇所は弟子たちのイエス様に対する信仰(愛と信頼関係)を前提にして語られているということです。確かに16節の最後に「人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」とありますが、この「良い行い」はこの世の常識、この世的な道徳や倫理に基づく善行ではなく、イエス様を愛し、信頼する者が、イエス様のみことばに忠実に行きたいという思いから出てくる行動、その結果であるのです。イエス様は、イエス様を愛し、信頼する者は、その結果としてこの世を味付けし、この世を明るく照らす存在になるという具体的なビジョンを弟子たちに見せたのです。
②私たちがすべきことは?
今日の箇所から私たちはどのような行動(適用・実践)を求められるのでしょうか。一生懸命良い行いに励むことでしょうか?そうではありません。まず、私達自身がイエス様を信じることによって、自分の人生が味付けされ、明るく照らされる経験をすることです。具体的には、イエス様の愛、赦し、あわれみ、恵みを、頭の知識としてではなく、実体験としてその味を味わい、光の明るさ、暖かさ感じることです。つまり、イエス様と極めて近く、深い関係を築いていくことこそ、まず私たちに求められている課題であるということです。
そのためには、イエス様と対話する時間、触れ合う時間を最大限増やしてくことが求められます。そのために自分は何ができるのかを考えるのです。聖書のみことばに触れること、みことばから自分へのメッセージを見つけること、そこから示された事柄を適用、実践すること、祈りの中で、その決意、結果(実践できた喜び、できなかった反省)をイエス様に報告することもできるでしょう。スモールグループの中で、みことばの適用、実践について分かち合えば、自分以外の兄弟姉妹のためにイエス様に祈ることができますから、そこでもイエス様との対話の時間を増やすことができるのです。日曜日の礼拝がイエス様との極めて重要な交わりの時間であることは言うまでもありません。
弟子たちは、悟りを開き「地の塩」「世の光」と呼ばれたわけではありません。単に、イエス様と寝食を共にし、イエス様との濃密な時間を過ごしていただけです。イエス様はその弟子たちを「地の塩」「世の光」と呼ばれ、そのような存在として歩み続けることを望まれたのです。もし、私たちもイエス様の願いに応え「地の塩」「世の光」として歩んでいきたければ、弟子たちと同じように、イエス様と一緒にいることから始めればよいのです。
今日もイエス様は、ご自身との交わりの時間を持つように、私たちを招かれています。その招きに応えてみましょう!
ライフチャーチ
大谷信道