デイリーディボーション 5月17日(水)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 5月17日(水)

2017年5月17日(水)

【通読】
マタイの福音書 5:17-20
17わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。19だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。20まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

【ポイント】
①律法の遵守では天国に行けない。律法を遵守しなくても天の御国には入ることができる。
19節を見てみましょう。イエス様は「19だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。」と教えられています。つまり、イエス様が律法の遵守は天の御国に行くための条件ではないと考えられているということです。

②「義」が律法学者、パリサイ人以下であれば、決して天の御国に入ることができない。
ところが、20節では「20まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」と教えられています。17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と教えられている通り、律法学者やパリサイ人が律法を大切にしている姿勢については、否定しているわけではないということです。つまり、メシアが来られたのだから、もはや「律法や預言者」は必要ない、というように旧約聖書を否定する人は、天の御国に入れないというのです。

③律法は養育係
イエス様の福音と律法の関係について、使徒パウロはガラテヤ人への手紙の3章で大変分かりやすく説明しています。
「21とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。22しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。23信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

旧約聖書の律法に真剣に向き合う時に得られる結論は、「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」(マタイ19:25)、「24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)というものなのです。この結論に至らない人は、聖書にいい加減にしか向き合ってないのです。バプテスマのヨハネは「悔い改め」を教えていましたが、その理由は彼自身も自分は救いようのない罪人であるという結論に至ったからなのでしょう。

あなたにとって、律法はキリストを求めさせる養育係となっているでしょうか。この後に、イエス様は旧約聖書の律法のダイジェスト(正しい解釈)を教えられます。旧約聖書全部を読まなくても、律法の要点を理解することができるようになっています。改めて、自分が救いようのない罪人であると認識し、救い主を求める機会としましょう。

ライフチャーチ
大谷信道


side_worship side_info