デイリーディボーション 5月18日(木)

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デイリーディボーション 5月18日(木)

2017年5月17日(水)

【通読】
マタイの福音書 5:21-26
21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。23だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、24供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。25あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。26まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

【ポイント】
①イエス様が明らかにする「本当の義」
20節でイエス様はこのように教えられました。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」 そして、イエス様は、21節以降でイエス様は「律法学者やパリサイ人の義にまさるもの」が具体的にどのようなものなのかを教えられているのです。

今日の箇所では「律法学者やパリサイ人の義」にあたるものは「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」という、十戒の第6番目の戒め(出エジプト)です。一方、「律法学者やパリサイ人の義にまさるもの」とは、「隣人との和解」です。他人との争いに関して、律法学者、パリサイ人は怒りに任せて人を殺さなければ、それは罪にはあたらないと考えていたのに対し、イエス様は人に直接手をかけていなくても、相手に怒りを覚え、和解することができない状態だけでも、殺人と同様の罪であると指摘されたのです。つまり、イエス様が明らかにされた神様の義は、当時の律法学者やパリサイ人が理解している義よりもずっと基準が高いものであると言うことなのです。

②「◯◯しなければ良い」という感覚を捨てる
神様を愛し、みことばを大切にする者は、「人を殺してはならない」という戒めを聞けば、神様は「これは人を憎むことも悲しまれるだろう。」と類推します。しかし、神様を愛さない者、みことばを大切にしない人は、「人を殺さなきゃOK何でしょ。」と考えるのです。つまり、本当に神様を愛する者は、一つの戒めの意味するところを真剣に考え(忖度し)ますから、そこからたくさんの適用例を考えることができるのです。イエス様は、単に十戒の基準を厳しくしたのではなく、神の御子として、神様の本当の意図、思いを明らかにされたのです。

あなたの信仰生活は「〇〇しなければいいんでしょ。」「〇〇すればいいんでしょ。」という、残念な感覚に陥っていることはないでしょうか。仕事においても、上司、会社に認められたいと思う時に、要求された以上の仕事をすることがあることでしょう。神様との関係も同じなのです。神様への愛ゆえに、神様の義についてもさらに忠実でありたいと思うことは自然なことなのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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