デイリーディボーション 5月19日(金)

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デイリーディボーション 5月19日(金)

2017年5月19日(金)

【通読】
マタイの福音書 5:21-26
27『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。28しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。29もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。31また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。32しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。

【ポイント】
①ポイントを外さない
イエス様の真意を理解しなければ、世の中の男性のほとんどは目をえぐり出したり、手を切り取らなければならなくなってしまうでしょう。イエス様は本当にそのようなことを願っているのでしょうか。きちんと考えてみましょう。

昨日の触れましたが、福音書全体から導き出すことができる、当時のパリサイ人、律法学者、さらにユダヤ人一般の信仰姿勢は「◯◯しなければいいんでしょ。」「◯◯すればいいんでしょ。」というようなものでした。例えば、十戒の第4番目の「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」という戒めを例にとってみましょう。安息日を神様のためにささげ、仕事をしないことに抵抗を覚える人は、「これはしても大丈夫ですか?」「これは仕事には当たらないですよね。」と、「仕事と定義されていないことはしてもよい。」と考えるようになるのです。一方、人々が抜け道ばかり探そうとするので、律法の教師たちはさらに細かい仕事の定義(細則)を提示し、安息日を守らせようとしたのでしょう。その結果、「細則にないことはしてもOK。」「細則に書いてある通りにしていればOK。」というような、神様不在の律法中心の信仰に陥ってしまったのでしょう。

イエス様は、このような状況に陥っているユダヤ人に対し、「ただ表面的に律法を守っていれば大丈夫などと考えてはならない!」「神様の御心を侮ってはならない!」と警鐘を鳴らされたのです。そして、神様の御心、神様の聖さ、神様の義からすれば、すべての人が罪を犯し、その結果として神様の裁きの対象になっていることを教えられたのです。使徒パウロも、この世の罪の現実についてはっきりと教えていますね。その代表的な箇所を確認してみましょう。

ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 」
ローマ6:23「罪から来る報酬は死です・・・」

しかし、パウロは罪と死の問題点だけでなく、その解決策についても併記しています。

ローマ3:24 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
ローマ6:23「・・・しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

信仰の第一歩は、自分が救いようのない罪人であると自覚することです。この自覚なしに「悔い改め」も「救いを求めること」も起こりません。イエス様は、罪の問題を抱えたまま生きること(死ぬことは)「目をえぐり出すこと」「手を切り取る」こととは比べ物にならない悲惨な結果を招くことになるという事実を教えられているのです。さらに、その問題は人間がいくら努力しても絶対に解消できないほど深刻なものであることを教えられたのです。

みなさんは、自分の罪の問題の深刻さについて本当に理解しているでしょうか。「山上の説教」を通して、改めて自分の罪深さを確認してみましょう。イエス様の救いが示されているので、私たちは恐れずに自分の罪深さを直視することができますね。

ライフチャーチ
大谷信道


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