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2017年5月22日(月)
【通読】
マタイの福音書 5:38-42
38『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。42求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
【ポイント】
①「目には目で、歯には歯で」の神様の御心を知る
「目には目で、歯に歯で」((出エジプト 21:24、
レビ記24:20、申命記19:21)とは人から何らかの被害を受けた場合に、受けた被害以上の報復を行なうことを禁じている律法です。例えば、人から暴力を受け視力を失ったとしたら、その被害を受けた人は加害者に対し殺意すら覚えることもあるでしょう。相手を殺害しなくても、「倍返し」のような報復を行ってしまうことがよくあったのでしょう。ですから、モーセの律法では連鎖を生み出すような報復を禁じ、いわゆる「同態復讐法」を認めているのです。
しかし、イエス様は復讐の連鎖を断ち切り、和解を行なうためのに与えられた「目には目で、歯に歯で」という律法が、単なる「賠償のルール」になってしまっていることを指摘されたのです。「同態復讐」は、一見公平な賠償方法に見えますが、「失明させられた人」と「失明させた償いとして目をえぐり出された人」が本当の意味で和解することはないのです。この問題は現代の司法制度の欠点としても指摘されることがあります。実は、「同態」または「お金」による賠償、または加害者を法によって裁き下すことによっては、被害を受けた人の心に平安を与えることができないのです。たとえ、加害者が死刑になったとしても、被害を受けた人の心が晴れやかになることはないのです。「目には目で、歯には歯で」の神様の真意は、「復讐はそこまでにして、相手を赦しなさい」というものだったことを、イエス様が明らかにされたのです。
②赦す
多くの人は、「自分は被害者なのになぜ相手を赦さなければならないのか!」と思うことでしょう。それが、不公平、理不尽に思えたとしても、相手を赦さない限り私たちの心に平安が戻ることは絶対にないのです。私たちの心の中にある「憎しみ」「怒り」は、癌のように私たちの心を蝕んで行くのです。しかし、今日のイエス様のみことばから、この「復讐心」「憎しみ」「怒り」の治療薬は「赦し」しかないことが分かります。
③なぜ赦せるのか?
それは、私たちがすでに赦されているからです。パウロは、私たちが相手を赦すことができる理由は次のように説明しています。「32お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)
そして、神様は私たちの赦しのために、大きな大きな犠牲を払ってくださいました。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:3)
イエス様の十字架の意味を知っている私たちは、今日のイエス様のみことばを「そんなの無理!」と拒絶せず、謙虚に聞くことができます。書かれている内容をすぐに実践できないとしても、それが神様の願いであることを素直に受け入れることができますね。
ライフチャーチ
大谷信道