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2017年5月24日(水)
【通読】
マタイの福音書 6:1-4
1人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。2だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。3あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。4あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
【ポイント】
①「偽善」に対する警告
6章からは、イエス様は神様との関係における「義(神様の前での正しさ)」について教えられています。イエス様は、当時のユダヤ人が行っていた「施し」「祈り」「断食」などの、いわゆる宗教的な行為の中に「偽善」が入り込み、神様が望まれている行いとは全く違うものになってしまっていることを指摘されています。
今日の箇所では、イエス様は「施し」について触れています。当時のユダヤ人は貧しい人々への「施し」を大切にしていました。「義」という言葉が「施し」の同義語として使われていたほどです。実際、「施し」は、経済的に困窮していた人々の助けとなっていたことでしょうから、その行い自体に問題があったわけではありません。イエス様はそれを行う人の動機に問題を見出していたのです。それは、2節にある「人にほめられたくて」というものです。
この世の常識からすると、「人にほめられること」は悪いことではなく、むしろ良いこととみなされるはずですが、一体何が問題だったのでしょうか。その答えは4節に記されています。イエス様は、「施し」の本来の意味は、人からほめられることではなく、天の父から報いを受けることであると教えられています。つまり、本来「施し」とは、私たちと天の父の関係の中で行なうべきものであって、そこに人間からの評価などが入り込む余地がないものだということです。
②人の評価からの自由を得る
人からの評価が必要以上に気になってしまう人は、評価を得るために努力続けるので、常に疲れやストレスを感じています。また、評価が得られないと感じた時に、酷く傷ついたり、相手に大きな怒りを覚えるという弱さを持っています。実際の社会の中では、間違いを指摘されたり、自分の提案が受け入れられないというような出来事が頻繁に起こるわけですから、その度に情緒が不安定になってしまうのです。ですから、私たちは「人から良い評価得たい」という感覚は、最終的には自分をダメにしてしまうことを知らなくてはなりません。
この間違った感覚から自由にされる唯一の方法は、神様の愛を信じることです。神様は、私たちの「行い」ではなく、「存在」を愛してくださる方です。自分が神様に受け入れられ、認められていることを心から信じれば、「人から良い評価を受けたい」という欲求、「人から良い評価を受けられない」という不安や恐怖から開放され、心に平安を得ることができるのです。神様との愛の関係が確立していれば、当時のパリサイ人たちの妙な自己顕示や偽善を行なう必要はなかったのです。
ライフチャーチ
大谷信道