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2015年5月26日(火)
【通読】
1テサロニケ4:9-10
9兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。
【ポイント】
①愛するとは矢面に立つこと
愛を実践していくとは、相手の人生に対して責任を持っていくことでもあります。親子関係、夫婦関係を想像すればすぐに分かりますね。しかし、責任のある立場に身を置くこと、他者からの批判や非難を受けることもあります。これは、イエス様の生涯を見れば明らかです。イエス様はその愛ゆえに律法学者、パリサイ人たちに厳しく教えらました。なぜなら、イエス様は彼らを愛し「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」という天の父の御心が実現するためでした。
家庭において、また神の家族である教会においても似たような出来事が起こるものです。親は子どもを愛するがゆえに、子どもが聞きたくないと思うような厳しことばをかけることもあります。それは、口先だけでなく、子どもを愛し、子どもの人生の責任を実際に負っている者としての当然の行動なのです。牧師も説教の中で、信徒がつまずきを覚えるかもしれない主の厳しいことばをはっきりと伝えることが求められます。それは、神様から群れを愛し、群れ成長のための責任が与えられているからです。ところが、その愛ゆえの責任を全うしようとする中で、親は子どもからの反発を受けたり、牧師が信徒から批判を受ける事があります。
これは、親や牧師だけでなく、相手を愛し、愛を実践していく時に誰でもが体験することなのです。つまり、相手を愛するとは、相手からの反発や批判を受けるという、矢面に立つことでもあるのです。(実社会でも、経営者、管理職にある人は同じような体験をしていることでしょう。)
ですから、本当の意味での愛の実践には勇気、覚悟が必要です。しかし、もし私たちがイエス様に似た者になりたいと思うのであれば、この現実を受け入れる必要があります。イエス様は愛し、救いたいと思っている人たちから迫害を受け、十字架にかけられました。もし、イエス様が愛を実践されなければ、そのような自体には陥らなかったはずなのです。
愛の実践は思っている以上に大変なのです。ですから、パウロは「どうか、さらにますますそうであってください。」とテサロニケの教会を励ましているのです。イエス様は、イエス様の名によって愛を実践する人、矢面に立つ人を求めています。あなたは、安全地帯の中にいるコメンテイターのような生き方と、批判や反発にさらされる可能性のある愛を実践する生き方のどちらを選択していますか?
マタイ5章
「11わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」
【今週の礼拝での聖句】
中心聖句:ヨハネの福音書15章16節
今日はペンテコステ礼拝です。しかし、なぜ、私たちにとてペンテコステ・聖霊降臨が重要なのでしょうか。そもそも、あなたは、ペンテコステという言葉を聞いて、心に喜びや嬉しさがあふれるでしょうか?喜びを感じてもいないのに、ペンテコステをお祝いするなんて変だと思いませんか?ですから、今日はペンテコステの喜びについて確認してみましょう。
具体的な説明をする前に質問から始めます。
「あなたは、あなたのすべてを理解し、ありのままを受け入れてくれ、いつも見方になってくれ、いつまでも一緒にいてくれる誰かがいますか?」同じような質問は以前にもしたことがありますね。しかし、私たちにとって極めて重要な質問なので、再度お聞きしました。じっくりと考えてみてください。親、子ども、配偶者、兄弟、子ども、友人、同僚、上司、恩師などの顔を思い浮かべてみましょう。これらの人の中に、あなたを完全に理解し、受け入れて、常に見方になってくれ、いつまでもいっしょにいてくれる人はいるでしょうか。
私たちの「自分のことを理解し、受け入れてくれる人が欲しい」という欲求は極めて強いものです。そのような存在がいない時に、私たちは大きな孤独感、寂しさ、不安、怒りを感じています。場合よっては自分の性格、精神的な健康に悪い影響を与えてしまうほど大きな問題なのです。しかし、ほとんど人はこの問題を漠然とした不安、満たされない気持ち程度にしか認識せず、その原因が周囲の人間にあると考えてしまうのです。例えば、大嫌いな上司がいたとします。自分ではこの上司を嫌う明確な理由のリストを持っています。しかし、自分では気づいていないけれども、その上司を嫌う本当の理由は、上司に認められ、受け入れられていという欲求が満たされていないことである可能性があるということです。
問題の解決はシンプルです。自分を受け入れ、常い見方となり、いっしょにいてくれる人を見つければいいのです。しかも、面白いことに、自分を100%
受け入れてくれる人が一人でもいれば良いのです。そうすれば、他の人に受け入れられているのかどうかは、あまり気にならなくなるのです。ところが、その一人がいないのです。
しかし、その一人がいるのです。それがイエス・キリストです。
イエス様はこのように約束されました。
「・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20) 「
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ 14:16)
イエス様は私たちの罪深さ、弱さをすべて知った上で、私たちを愛し、受け入れることを決められました。私たちへの愛が言葉だけでないことを証明するために、十字架にかかられました。そして、私たちと世の終わりまで共にいてくださるという約束を証明するために、聖霊を与えてくださったのです。
ですから、イエス様の聖霊を与える約束が、誰が見ても分かる形で成就したペンテコステの日の出来事が重要なのです。ペンテコステの日の出来事があったからこそ、イエス様の約束を確信をもって信じることができるのです。キリストが自分を愛し、受け入れ、最後の最後まで共にいてくださると信じることができるので、この世のほとんどの人が抱えている孤独感、寂しさ、不安から解放されるのです。
母親が赤ちゃんを抱くように、キリストが私たちを抱きしめてくださっている姿を想像してみましょう。そして、ありのままの姿で身を委ねてみましょう。
ライフチャーチ牧師
大谷 信道