デイリーディボーション 5月27日(水)

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デイリーディボーション 5月27日(水)

2015年5月27日(水)

【通読】
1テサロニケ4:11-12
11また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。

【ポイント】
①「落ち着いた生活」を志す
今日の箇所について、多くの研究者は、テサロニケの教会の中で「キリストの再臨が近いのであれば、仕事をする必要もないだろう。」と考え、働くことをやめてしまった人々がいたのではないかと理解しています。他の人達は、再臨とは関係なく、テサロニケ教会の中で、兄弟愛の一環として行われていた教会内での相互援助に甘え、働くことをやめてしまった人たちがいるのではないかと考えているようです。しかし、実際にはどちらも推測の域を出ていません。

問題がどちらにしろ、パウロがテサロニケ教会の人々に求めている生き方は同じです。それは、まず第一に落ち着いた生活を志すことです。ローマ13章でパウロはこのように指摘しているとおりです。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」テサロニケやコリントのような大きな都市では、様々な娯楽、遊興施設が発達していた思われます。人間の欲望を刺激する様々な施設があふれている日本の都会と大変よく似ていますね。このような、都市での生活に慣れてしまった人々が、パウロが目指しているクリスチャンらしいライフスタイルに変えていくことは、決して簡単なことではなかったのでしょう。例えば、人によっては、クリスチャンになるまでいっしょに飲み歩いていた友人との付き合い方も変える必要が出てくるわけです。実際に、前からの友人たちからの誘惑や苦情がクリスチャンたちの頭を悩ませていた事が、使徒ペテロも第一の手紙4章から伺い知ることができます。「3あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。4彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。」

あなたは、同じような経験をしていませんか?依然として、クリスチャンの人とはクリスチャンらしい付き合い方、クリスチャンでない人とは、そうでない付き合い方というような、ダブルスタンダード、2面性を持ったまま生活していることはありませんか?もし、そ両方が自分の信仰と矛盾することがなければ問題はないでしょう。つまり、クリスチャンでない人たちとの付き合い方がイエス様の前で何ら恥じることがないものであれば良いのです。しかし、それが罪悪感を覚えるものであれば、その生き方を変えていくことが求められます。

これは、クリスチャンだけの問題ではありませんね。結婚した人は、配偶者のために、独身時代の友達付き合い、飲み食いなどの仕方を変えることが当然のこととなります。結婚カウンセリングなどの中では、独身時代のライフスタイルを変えたくない人がいれば、その人は結婚の準備ができていないと伝えなければなりません。反対に、夫婦の関係を築くことを互いの最優先事項とし、独身時代のお金、時間の使い方、友だちとの付き合い方を変え、夫婦で落ち着いた生活を築く覚悟ができていれば、カウンセラーは結婚の準備ができていると見るわけです。

しかし、キリストとの関係を一番にする生活、また同じ愛をもって愛し合う夫婦生活は、この世の刺激的な生活から得られる喜びよりもずっと大きなものであることを覚えておきましょう。キリストは、私たちを禁欲的で、味気ない生活ではなく、より大く、深い喜びの中に導こうとされているのです。

【今週の礼拝での聖句】
中心聖句:ヨハネの福音書15章16節

今日はペンテコステ礼拝です。しかし、なぜ、私たちにとてペンテコステ・聖霊降臨が重要なのでしょうか。そもそも、あなたは、ペンテコステという言葉を聞いて、心に喜びや嬉しさがあふれるでしょうか?喜びを感じてもいないのに、ペンテコステをお祝いするなんて変だと思いませんか?ですから、今日はペンテコステの喜びについて確認してみましょう。

具体的な説明をする前に質問から始めます。
「あなたは、あなたのすべてを理解し、ありのままを受け入れてくれ、いつも見方になってくれ、いつまでも一緒にいてくれる誰かがいますか?」同じような質問は以前にもしたことがありますね。しかし、私たちにとって極めて重要な質問なので、再度お聞きしました。じっくりと考えてみてください。親、子ども、配偶者、兄弟、子ども、友人、同僚、上司、恩師などの顔を思い浮かべてみましょう。これらの人の中に、あなたを完全に理解し、受け入れて、常に見方になってくれ、いつまでもいっしょにいてくれる人はいるでしょうか。

私たちの「自分のことを理解し、受け入れてくれる人が欲しい」という欲求は極めて強いものです。そのような存在がいない時に、私たちは大きな孤独感、寂しさ、不安、怒りを感じています。場合よっては自分の性格、精神的な健康に悪い影響を与えてしまうほど大きな問題なのです。しかし、ほとんど人はこの問題を漠然とした不安、満たされない気持ち程度にしか認識せず、その原因が周囲の人間にあると考えてしまうのです。例えば、大嫌いな上司がいたとします。自分ではこの上司を嫌う明確な理由のリストを持っています。しかし、自分では気づいていないけれども、その上司を嫌う本当の理由は、上司に認められ、受け入れられていという欲求が満たされていないことである可能性があるということです。

問題の解決はシンプルです。自分を受け入れ、常い見方となり、いっしょにいてくれる人を見つければいいのです。しかも、面白いことに、自分を100%
受け入れてくれる人が一人でもいれば良いのです。そうすれば、他の人に受け入れられているのかどうかは、あまり気にならなくなるのです。ところが、その一人がいないのです。

しかし、その一人がいるのです。それがイエス・キリストです。

イエス様はこのように約束されました。
「・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20) 「
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ 14:16)

イエス様は私たちの罪深さ、弱さをすべて知った上で、私たちを愛し、受け入れることを決められました。私たちへの愛が言葉だけでないことを証明するために、十字架にかかられました。そして、私たちと世の終わりまで共にいてくださるという約束を証明するために、聖霊を与えてくださったのです。

ですから、イエス様の聖霊を与える約束が、誰が見ても分かる形で成就したペンテコステの日の出来事が重要なのです。ペンテコステの日の出来事があったからこそ、イエス様の約束を確信をもって信じることができるのです。キリストが自分を愛し、受け入れ、最後の最後まで共にいてくださると信じることができるので、この世のほとんどの人が抱えている孤独感、寂しさ、不安から解放されるのです。

母親が赤ちゃんを抱くように、キリストが私たちを抱きしめてくださっている姿を想像してみましょう。そして、ありのままの姿で身を委ねてみましょう。

ライフチャーチ牧師
大谷 信道


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