デイリーディボーション 5月29日(金)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 5月29日(金)

2015年5月29日(金)

【通読】
1テサロニケ4:16-17
6主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

【ポイント】
①聖書解釈について考える
私自身は聖書が誤りのない神のことばであると信じています。もし、聖書が神のことばでないとしたら、聖書は私にとって「参考書」「宗教書」であり、そこに記されている内容を信じたり、従ったりする対象ではなくなります。ですから、ライフチャーチは大変「保守的」「聖書的」な教会を目指している教会と言うことができます。時々、ライフチャーチが「リベラル(自由主義的)」な教会だと表現される人がいますが、そうではありません。おそらく、ライフチャーチの自由な礼拝の雰囲気、シンプルな教会の組織などを指しているのでしょうが、自由な雰囲気と「リベラル」であることは全く別物です。「保守的」「リベラル」を決めるのは、礼拝の形式でも、牧師の服装でもなく、聖書の捉え方にあります。大変伝統的、儀式的、宗教的に見える教会でも、聖書が誤りのない神の言葉であると信じていない教会は、「リベラル」な教会なのです。

さて、聖書を誤りのない神のことばと信じる私たちは、今日のような箇所をどのように理解すればよいのでしょうか。理解を深めるために一つの例を考えてみましょう。ある人のブログに「今日はたくさん歩いたので、足が棒になった。」と書かれていたとします。その人の足は本当に木の棒になってしまったのでしょうか。そんなはずはありませんね。でも、そうだとしたら、その人は嘘を書いたのでしょうか。それも違います。言うまでもなく、これは「たとえ・比喩」です。ですから、書き手が比喩を使っているのであれば、それを比喩として理解することが、その人が書いたものをそのまま理解することになるわけです。

ですから、今日のような箇所もパウロがキリストの再臨の詳細について現代の常識や科学を基に説明しているわけではないと理解するのであれば、そこに書かれている一つ一つのことがらが文字通りの形で実現すると考える必要はないのです。つまり「木の棒になってしまった足」を想像する必要はないということです。さらに、キリストの再臨は人類の誰も経験したことがない出来事であるので、実際の様子を私たち人間が直接見たとしても、それを完全に理解し、文字として表現することはできないという謙虚さを持つことも大切だと思います。

しかし、私はキリストの再臨が実際に、現実の出来事として起こることを信じています。その時に、「パウロの手紙に記されていたことはこれだったのか!」と誰でも納得することになるのだと思います。ですから、「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」というパウロに啓示された約束をパウロ自身が信じていたように私たちも信じ、地上での艱難に耐え忍び、互いに励まし合って行きましょう!

【今週の礼拝での聖句】
中心聖句:ヨハネの福音書15章16節

今日はペンテコステ礼拝です。しかし、なぜ、私たちにとてペンテコステ・聖霊降臨が重要なのでしょうか。そもそも、あなたは、ペンテコステという言葉を聞いて、心に喜びや嬉しさがあふれるでしょうか?喜びを感じてもいないのに、ペンテコステをお祝いするなんて変だと思いませんか?ですから、今日はペンテコステの喜びについて確認してみましょう。

具体的な説明をする前に質問から始めます。
「あなたは、あなたのすべてを理解し、ありのままを受け入れてくれ、いつも見方になってくれ、いつまでも一緒にいてくれる誰かがいますか?」同じような質問は以前にもしたことがありますね。しかし、私たちにとって極めて重要な質問なので、再度お聞きしました。じっくりと考えてみてください。親、子ども、配偶者、兄弟、子ども、友人、同僚、上司、恩師などの顔を思い浮かべてみましょう。これらの人の中に、あなたを完全に理解し、受け入れて、常に見方になってくれ、いつまでもいっしょにいてくれる人はいるでしょうか。

私たちの「自分のことを理解し、受け入れてくれる人が欲しい」という欲求は極めて強いものです。そのような存在がいない時に、私たちは大きな孤独感、寂しさ、不安、怒りを感じています。場合よっては自分の性格、精神的な健康に悪い影響を与えてしまうほど大きな問題なのです。しかし、ほとんど人はこの問題を漠然とした不安、満たされない気持ち程度にしか認識せず、その原因が周囲の人間にあると考えてしまうのです。例えば、大嫌いな上司がいたとします。自分ではこの上司を嫌う明確な理由のリストを持っています。しかし、自分では気づいていないけれども、その上司を嫌う本当の理由は、上司に認められ、受け入れられていという欲求が満たされていないことである可能性があるということです。

問題の解決はシンプルです。自分を受け入れ、常い見方となり、いっしょにいてくれる人を見つければいいのです。しかも、面白いことに、自分を100%
受け入れてくれる人が一人でもいれば良いのです。そうすれば、他の人に受け入れられているのかどうかは、あまり気にならなくなるのです。ところが、その一人がいないのです。

しかし、その一人がいるのです。それがイエス・キリストです。

イエス様はこのように約束されました。
「・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20) 「
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ 14:16)

イエス様は私たちの罪深さ、弱さをすべて知った上で、私たちを愛し、受け入れることを決められました。私たちへの愛が言葉だけでないことを証明するために、十字架にかかられました。そして、私たちと世の終わりまで共にいてくださるという約束を証明するために、聖霊を与えてくださったのです。

ですから、イエス様の聖霊を与える約束が、誰が見ても分かる形で成就したペンテコステの日の出来事が重要なのです。ペンテコステの日の出来事があったからこそ、イエス様の約束を確信をもって信じることができるのです。キリストが自分を愛し、受け入れ、最後の最後まで共にいてくださると信じることができるので、この世のほとんどの人が抱えている孤独感、寂しさ、不安から解放されるのです。

母親が赤ちゃんを抱くように、キリストが私たちを抱きしめてくださっている姿を想像してみましょう。そして、ありのままの姿で身を委ねてみましょう。

ライフチャーチ牧師
大谷 信道


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