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2017年5月4日(木)
【通読】
マタイの福音書 3:13-17
13さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。14しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」15ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。16こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
【ポイント】
①バプテスマは「儀式」ではなく、「節目」
私たちは、イエス様の行動のすべては、基本的にそれを見ている弟子たちへの証し、教えであると考えると良いと思います。まず、バプテスマが罪を洗い流す儀式だと勘違いしている人は、その考えを改めましょう。バプテスマは、目に見えない霊的な領域で行われている神様の御業を、目に見える形で象徴に表現する目的があると言えます。バプテスマには、神様による罪の汚れの清めの象徴化としてのバプテスマ(ヨハネが授けていたバプテスマ)、古い自分が死に、イエス様によって与えられる新しいいのち(聖霊)が与えられる出来事の象徴化としてのバプテスマ(イエス様の弟子たちによるバプテスマ)など、それを授ける者(授けられる者)の目的によって、象徴されている事柄が異なるのです。
それでは、イエス様が受けたバプテスマの目的、バプテスマが象徴している出来事は一体何だったのでしょうか?イエス様は罪を犯されていませんから、罪が清められる必要はありませんし、その象徴であるバプテスマを受ける必要もありません。また、イエス様は新しいいのちを与える側の方ですから、聖霊が与えられる必要、新しいいのちが与えられる必要も、その象徴としてのバプテスマを受ける必要もありません。残念ながら、マタイはイエス様のバプテスマが象徴している内容について説明していないのです。ただ、分かることはイエス様はご自分がバプテスマを受けることが正しいことをご存知であったということです。
さらに、ヨハネのバプテスマ、イエス様の弟子たちのバプテスマに共通する点は、「新しい歩みの節目」であるということです。さらに、バプテスマを受ける人は、自分の中だけで節目を感じるのではなく、それを見ているすべての人の前で、自分が新しい歩みを始めることを公に宣言するのです。イエス様が受けたバプテスマが何を象徴していたのかを知ることができなくても、イエス様がそれまでとは全く別の、新しい歩みを始める決意をされたことを公に宣言されたことだけは確かな事実なのです。その新しい歩みとは、十字架への歩みなのです。
ライフチャーチ
大谷信道