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2017年6月12日(月)
【通読】
マタイの福音書 8:1-4
1イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。2すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」3イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
4イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」
【ポイント】
①イエスは癒やし主、しかし・・・
4節の「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。」という箇所に疑問を持つ人がいると思います。イエス様が大勢の人に知られ、有名になったほうが良いのではないかと思う人もいることでしょう。しかし、イエス様の使命、目的は、病気を癒やすことでも、有名になることでもありません。ですから、人々が病気の癒やしだけを求めてイエス様のもとへ集まってきたとしたら、イエス様は本来の目的を遂行することができなくなってしまう可能性がありました。ですから、ご自分が何者であるのかについて、間違った情報が広まらないようにこのように言われたのです。
②イエスは癒やし主以上の方
肉体の癒やし(病からの救い)と罪の赦し(死からの救い)のどちらが優れた業でしょうか。もちろん、後者ですね。場合によっては、人間の努力、知識によって病を治すことはできます。しかし、人間は自分の魂について何もすることができないからです。ですから、人間の肉体すら癒やすことができない人が、人間を罪から救うことはできないのです。
イエス様が癒やしを行われる目的は病で苦しんでいる人を憐れむためでもありますが、真の目的は、ご自身が人の罪を赦すことができる者、人を罪の報酬としての永遠の死から救い出すことができる者であることを証することなのです。ですから、4節の続きで「ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」と教えられているのです。
ライフチャーチ
大谷信道