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2017年6月13日(火)
【通読】
マタイの福音書 8:5-13
5イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、6言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」7イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」8しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。9と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」10イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。11あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。12しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」13それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
【ポイント】
①イエス様への信頼
イエス様は「いやし主」です。様々ないやしを行なうことによって、ご自身が救い主であることを証しされた後も、信じる者の病や怪我をいやしてくださる方です。ヤコブも「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」(ヤコブ5:14)と、教会で病気の人のために祈るように教えられています。
今日の箇所にも、イエス様いやしを行われたことが記録されています。しかし、今日のエピソードをよく見ると、その中心は「いやし」ではなく「イエス様への信頼(権威に対する忠誠)」であることが分かります。
イエス様は異邦人であるローマ軍の百人隊長のイエス様に対する信頼、忠誠を「信仰」と呼んでいます。ローマ軍の中で大切にされている部下の上官に対する信頼、忠誠の姿が、イエス様が教えられている「信仰」に極めて似た部分があることを指摘しています。つまり、ローマ軍で理想とされている上官と部下の関係(権威に対する服従)を、神様(キリスト)と信じる者に置き換えれば、それは「信仰」そのものであると教えられているのです。
私たち日本人は、それが悪用された経験から、国家・軍隊・警察の権威(権力)などに対して強い警戒感、権威に服従することは危険なことであるという意識を持っている人が多いと思います。しかし、それは権威を手にした人々、そのような人々に権威を与えた国民の問題であることを知る必要があります。つまり、権威自体が悪いものであるわけではないということです。
そこで、私たちは今日の箇所を通して、私たちは「絶対的な権威を持たれている神様と、自分はどのような関係にあるのか?」と自らに問いかけるのです。ヨハネ15章15節の「わたしはあなたがたを友と呼びました。」などというみことばの拡大解釈から、イエス様と関係が「気軽な友達」程度で止まってしまっている人はいないでしょうか。イエス様は私たちを「友」と呼んで下さることは、イエス様が遠い玉座の上から見下ろすのではなく、私たちの一番近い所に下りてきて、一緒にいてくださることを意味しています。しかし、それは、私たちがイエス様を自分の友達のように扱って良いことを意味しているわけではありません。イエス様は、私たちの友として一緒にいてくださいますが、依然として「・・・キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2:10)ということを忘れてはなりません。イエス様との親しい交わりを持つことと、絶対的な権威者として服従することは、完全に両立可能であること覚えておきましょう。
ライフチャーチ
大谷信道