誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2017年6月16日(金)
【通読】
マタイの福音書 8:23-27
23イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。24すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。25弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」26イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。27人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
【ポイント】
①「いったいこの方はどういう方なのだろう。」
弟子たち、群衆、そして福音書を読むすべての人々が持つべき疑問は、27節に記されている「いったいこの方はどういう方なのだろう。」というものです。多くは「私は天国に行けるのだろうか。」「私の人生は祝福されるのだろうか。」「イエスは私に何をしてくれるのだろうか。」などと「私」を中心にした疑問を持っていることでしょう。しかし、そのような自分を中心とした疑問を持ちながら福音書を読んでしまうと、福音書の著者(神様)が本当に伝えたかったポイントを見過ごしてしまうのです。何事も自己中心ではうまくいかないのです。イエス様についての数々の出来事の中から、マタイがこのエピソードを自分の福音書に採用した理由は、私たち読者が「いったいこの方はどういう方なのだろう。」という、「イエス様中心」の疑問を持つためではないかと思うのです。
このような視点は、日々の生活の中でも大切だと思います。例えば、大統領、議員などの選挙を考えてみましょう。一般的に有権者は自分に一番の利益をもたらしてくれる人は誰なのかという視点、つまり自分中心の視点で投票を行なうものです。候補者も「美味しい話」で有権者の人気を得ようと必死になります。しかし、そのような自己中心的な投票行動が時として悲劇をもたらすことを、私たちは過去の経験から知っているのです。
もちろんイエス様は私たちを祝福して下さいます。しかし、「イエス様が自分に何をしてくれるのか。」という視点をちょっと脇において、「いったいこの方はどういう方なのだろう。」という視点から、さらにイエス様のことを知り、自分の人生、魂を委ねることができる方であるという確信を深めていくことも大切なのです。
ライフチャーチ
大谷信道