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2015年6月19(金)
【通読】
2テサロニケ 1:8-9
8そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。9そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
【ポイント】
①復讐は主のなさること
天の御国を信じない者は、この地上で、しかもできるだけ早く問題の決着を図ろうとします。ほとんどの人は、「やられたら、やり返す」ことが当然のことだと考えています。やられたままでは、不公平であり、報復、復讐は当然の権利だと考えます。しかし、私たちクリスチャンは本当にそれで良いのでしょうか。「やられたら、やり返す」ことは、当然の権利なのでしょうか?
イエス様は、何と教えられているでしょうか?
マタイ5章38-43節
38『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。42求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。43『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
パウロはどう教えているでしょうか?
ローマ人への手紙12章19節
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 ヘブル人への手紙10章30節
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。
もし、私たちがイエス・キリストを主としているのであれば、この命令についても忠実に従うことが求められているのではないでしょうか?残念なことに、多くのクリスチャン、特にクリスチャの政治家、為政者がこの戒めを当然のごとく破り、勝手な聖書解釈で戦争や争いを正当化してきました。そのような人々の言い分はこうです。「確かにイエス様の言っていることは理想的かもしれないが、それでは自分の国や家族を守ることはできない!」
この「確かにイエス様は正しいかも知れないけど・・・」という考え方は極めて危険であることを知らなくてはなりません。なぜなら、それはイエス様の命令よりも、自分の判断が正しいと言っているのと同じだからです。口ではイエス様を信じる、自分はクリスチャンであると言っているとしても、イエス様の絶対的な権威を認めなければ、つまり自分の判断を優先させるのであれば、を主と信じていないのと同じなのです。
このようなことを言うと、「じゃあ、お前は自分の国、自分の家族をどのようにして守るのか?」、「もし目の前で家族が殺されそうになったら、お前はどうするのか?」と反論する人もいることでしょう。しかし、それは人に聞く質問ではありません。イエス様に相談するべきことです。聖書のみことばの中に答えを求めるべきなのです。人と議論をして勝っても仕方がないのです。イエス様のことば、その他の聖書のみことばを確認した上で、どのような判断を下すのかは私たちに委ねられています。(もちろん、聖霊がみことば従うように私たちを導いてくださいます。)
イエス様はマタイ7章で、このようにも教えられています。
21わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
ですから、私たちは、この世の常識ではなく、イエス様のみことばに従って「その日」のために備え続けましょう。大きな患難にあったとしても、キリストを信じる者は必ず最終的に慰めを受けるのです。自分の力で、家族や国を守れなくても、キリストが彼を信じる私たち家族をご自分の御国に迎え、永遠の守りの中に入れてくださるのです。
【今週のメッセージ】
コロサイ人への手紙 3:12-17
「神の家族形成に関わる」
私たちは、キリストの愛を受け取り、その愛を持って神を愛し、隣人を愛し続けるという生き方に招かれています。なぜなら、キリストを信じるとは、キリストを愛し、その戒めに従うことを意味しているからです。それでは、私たちはどこでこの戒めを実践していくのでしょうか。それは教会です。別の言い方をすれば、キリストを愛をもって互いに愛し合い、赦し合う約束をもって集まっている人々の群れが教会なのです。
①私たちは、キリストのからだの建て上げに召されている
エペソ4: 1-3
1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
残念ながら、多くのクリスチャンが①のキリストからの招きを理解せず、自分の利益を求め信仰生活を続けているいるのです。そこで、②番目のポイントです。
②自分の利益のための信仰生活(夫婦・子育て)はうまく行かなくなることを知る
ヤコブ4:1-3
1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。2あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。3願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
そこで、私たちはキリストの招きについて知り、その具体的な姿を聖書から学ぶことが重要なのです。
パウロのことばから、私たち、キリストに召されている者が取り組むべき事柄を確認しましょう。
1.互いに忍び合いなさい(13節)
2.互いに赦し合いなさい(13節)
3.キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、
4.知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
5.詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(16節)
これらを実践する最高の形が、教会のスモールグループなのです。
③教会のスモールグループはキリストの召しの実践の最高の場
特に、4番を見てみましょう。互いに教えあうこと、互いに戒め合うことは、100人のグループでは不可能です。20人でも難しいかもしれません。つまり、パウロの思い描いている教会の姿は、決して大きなグループではないのです。大きな教会が良い教会であると勘違いしている人がいるようですが、もし、ここではっきりと記さている事柄実践できていないとしたら、決して良い教会とは言えないのです。反対に、せっかく少人数の教会であっても、互いに教え合い、戒め合う事に熱心でなければ、聖書に忠実な教会とは言えません。
私たちライフチャーチにあっては、キリストのみことばに忠実な教会を目指して行こうではありませんか。なぜなら、そこに大きな祝福、平安があるからです。
コロサイ3:15
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
ライフチャーチ 牧師
大谷信道