デイリーディボーション 6月20日(火)

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デイリーディボーション 6月20日(火)

2017年6月20日(火)

【通読】
マタイの福音書 9:1-8
9イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。10イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。11すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。13『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

【ポイント】
①イエス様の招きに従う
イエス様は、人々に特別な知識を身につけたり、秀でた人間性、倫理観を獲得するように命じられているわけではありません。今日の箇所でマタイに「わたしについて来なさい」と言われたように、私たちを招かれているのです。私たちがするべきことは、その招きに従うことであり、それが信仰なのです。

とは言え、誰かから「わたしについて来なさい」と言われたる時、私たちは「本当にこの人についていって良いのか?」と考えるのが普通です。イエス様に対しても同じです。自分は本当にイエス様に身を委ねて良いのか、イエス様が何ものであるのかを真剣に検討し、結論を出すことが大切なのです。今日の箇所にはマタイがそのような検討をしたのかどうかは記されていません。しかし、彼が自分の仕事を途中で投げ出しイエス様に従ったという行動から、彼なりに相当考え、悩んだ結果として、イエス様に従うという決断を下したことを推測できるのです。

②私たちは病人
なぜ、イエス様の招きに従うだけで良いのでしょうか。それは、私たちが病人だからです。病気の人は医者に向かって「先生、私は自分の悪いところを直してから、先生の所に伺います。」とは言わないのです。自分で悪いところを直せるのであれば、医者は必要ないからです。イエス様との関係についても全く同じことが言えるのです。私たちができることは、イエス様の招きに応答することなのです。繰り返しになりますが、このイエス様との個人的な関わりこそが信仰なのです。

そういう意味では、教会は「病人」、つまり、自分が罪人であり、自分の力では絶対に自分を救うことができないという自覚を持っている人の集まりなのです。イエス様は、そのような私たちとともに食事をしてくださる方なのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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